本日は休暇をとっている。
今年はこれまで休みを取っても、Adobeあり・PAGE2005あり・JAGATあり・ビジュアルプロセッシングジャパンあり…とおシゴトがらみのセミナーにばかり行っていたが、本日は単に、
ウチのマンションの消防設備点検の立会い
だったというだけ(^烹^;。スミマセン(←ってダレに言ってる?)。
ソチラはほんの数分で済んだので、残りは空き時間。とりあえず読みかけのまましばらく読めないでいた本を一冊読了。
10年くらい前までは新潮文庫でも重版していたらしい、キルケゴールの「愛について」である(
いまでもオンデマンドで入手できるようだが2〜3000円もするようだし)。正確には「愛の生命と摂理」と称する著作の一部分のようだ(
原題が分からないので付記しないが、多分デンマーク語なので実質分からんだろ〜な(^烹^;)。
キルケゴールというと19世紀前半の名高い哲学者だが、一旦はレギーネ・オルセンという女性と婚約までしながら、より高い次元の愛を求める気持ちや宗教的感情の結果とおぼしき理由でその婚約を破棄してしまった。しかし、その感情を忘れることなく高みに引き上げる努力を生涯怠ることはなかったという。ワシの抱える課題にもある種近いものがあるように思えて、それなりの関心はあった。
前記に書いたような事情が示すとおり、ここで言う「愛」とは、もちろん宗教的な意味で言われるもので、性愛とは違う。宗教には縁遠くもちろんキリスト教についてもよく分かっていないようなワシには受け入れづらいとか呑み込めない部分が多く、それが読むのに時間をかけざるを得なかった理由として大きいが、啓発される部分は多かった。
「義務としての愛だけが永遠である」といい、修練を要するものが愛であるという物言いはおおかたの人には奇異に写るかもしれない。しかし、自然発生的な感情に偏りがちになっている昨今のなげかわしい風情を目の当たりにするかぎり、案外うなずける要素は多いように思う。
「即ち愛は、たとえば、それ自らに対して悦びを有ってよいのだ等いう、甘やかす様な空想を描く余暇などを与えてはなりませぬ」
昨今、「愛」とかいう大義名分のもと自分を甘やかそうとする類(特にオンナ)の実に多いことか。チョット前に「バブル時代にゴーマンちきな女のイメージで売っていたが、売れなくなるや今度はエログロっぽいキャラクターにクラ替えして人気があるらしい」さるタレントが
「愛には3つの愛がある」「自分の分身のようにいとおしい男、尊敬する男、刺激を与えてくれる男」「これらの3種類の男が必要で、3つの愛は同時になりたつ」とかそのキャラクターにふさわしいチープなコトバをのたまわったというが、こういった「安っぽい感情の垂れ流し」のドコに信義とか高尚なものを感じるというのか。
「もし恋愛が私をすぐ神に導いて行かなかったら、又恋愛に於いて私が相手の女を即刻に神に導いて行くことが出来なかったら、その恋は真の愛ではありませぬ。たとえそれは自然的な愛欲の最高の幸福であり、喜悦であろうとも」
「神に導く」というコトバはチョット受け入れにくいとしても、「単に異性としての魅力にとらわれているというだけでなく、より高い次元での使命感といったものが共有できなければいけない」のだと解すれば肯けるだろう(って卑近な解釈のしかたですか(^烹^;?)。そう言った、みずからに乗り越えるべき課題を負って絶えず努力できないようなものでないかぎり
「ただ愛であるらしい外見にすぎませぬ。それによって人々は互いに欺き合い、魅惑せられ合っているだけなのです」。
もちろんこの本で言っている内容は「万人への愛」を内包するものであり、この面でだけ語ろうとするのは偏りがあるだろう。しかし、この誤認を解くための論説にかなりのページを割いているようでもあり、まんざら的外れではないかもしれない。いささか俗っぽい受け取り方ではあるが、あたかもレギーネへの感情を高い深みに引き上げるべくみずからに試練をあたえようとしたキルケゴールの、自分への叱咤の言葉を読むようである。