2017/7/21

「ご苦労様でした」  教育・学校・教師

     〜一学期終業式

 先生方、長い長い一学期、ご苦労様でした。
 とは言え、まだ来週いっぱい前期研修(校外)がありますからこのクソ暑い中、もうひと頑張りしなくてはなりませんが――。
 しかしとりあえず、終業式が終わって通知票さえ渡せば気は楽になります。
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 ところで今年の夏、皆さまはどんな計画を立てておられるのでしょうか。
 私は毎年毎年、夏休みに入ったとたんに「ああ今年も計画立て損なった!」と嘆いてばかりいました。夫婦そろって天性のケチですから立てたとしてもロクな計画ではなかったでしょうが――。
 今となればもっとたくさん海外旅行をしておけばよかったな、といったことは思います。そうすればもっと子どもたちに夢のある話ができたものを。

 さて、私にとってはさほど意味のあることではありませんが、今年も皆さまと同じように夏休みを取っておこうと思います。
 再開は学校の後期研修の始まる8月21日(月)ごろを予定しています。
 もっとも例年の通り、気になることがあれば明日にも記事をアップするかもしれません。気分次第というのも夏休みらしくていいですね。

 それでは皆様、暑い夏、どうぞお体にお気をつけてゆっくりお過ごしください。

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2017/7/21

「7・18NHK『クローズアップ現代+』のどこが微妙だったのか」A  教育・学校・教師

      〜いじめ問題は金で解決できる

 7月18日の「クローズアップ現代+」、「なぜ続く“いじめ自殺”〜子どもの命を救うために〜」は、最後にいじめ問題の根本的な解決につながるかもしれない取り組みとして、大津市の例を紹介しました。
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 大津は6年前、全国に大きく報じられることとなったいわゆる「中2いじめ自殺事件」のあった市です。市はこの事件に対する痛切な反省から「大津市 子どものいじめの防止に関する条例」を定め「大津市 いじめの防止に関する行動計画(地方いじめ防止基本方針)」を策定して二度と同様の事件を起こさないよう、「子どもをいじめから守るために二重三重の体制で対応」していこうしてきました。
「クローズアップ現代+」が取り上げたのは、そのうちの二つの制度です。


【「いじめ対策担当教員」と市役所「いじめ対策推進室」】
 番組では「いじめ対策の専門の教員」という言い方をしていましたが、大津市は市内の全小中学校55校に担任を持たない「いじめ対策担当教員」を配置し、日常的にいじめや、いじめに発展しそうな事例を拾い出し、対応する体制を取っています。

 一般に学校において「○○教員を配置する」といったら眉に唾をつけて調べなければならなりません。
「司書教諭を配置する」「特別支援コーディネーターを配置する」といっても必ずしも教員の数が増えるわけではなく、単に現有の職員に資格を取らせるだけ(その先生は忙しくなる)ということもありますし、「副校長を配置する」が「教頭を廃止する」と同じ意味であって結局やることも人数も変わらない、といったことがままあるからです(というかそれがほとんど)。

 しかし大津は実際に1名ないしは2名を増員しているらしく、番組は彼らが空き教室(体育や音楽の授業で生徒がそちらに移動して空になっている教室)を回って掲示物へのいたずらなどいじめの兆候がないかを確認したり、休み時間に起こった生徒間トラブルに即応して本人から話を訊き、必要に応じて担任たちを集めて対策会議を開いたりしている様子が映されていました。
 もちろん「担当教員」には生徒指導のベテランを当て、その不足分を市が増員した講師で補っているのです。

 そうした「いじめ対策担当教員」を各校に配置する一方で、大津市は市役所の中に市長が直接指揮を執る「いじめ対策推進室」を置き、弁護士・臨床心理士などによる4人の相談員を常駐させて常に第三者の目で学校をチェックしようとしています。
 児童・生徒・保護者も直接に相談ができ、内容に従って相談員が家庭に赴き、あるいは学校に働きかけて問題を小さなうちに解決しようとしています。
「クローズアップ現代+」ではこの制度について、市長の、
「学校の中の閉鎖的な組織から離れて違う見方をすることが大事」
という発言を紹介しています。「推進室」が市長直属、つまり教育委員会の外にあって外部からチェックするというところに大きな意義を感じているからでしょう。


【評価】
 私は大津市のこの取り組みを非常に優れたものだと感じています。
「いじめ対策担当教員」が発見して対応するのはいじめ問題に留まりません。児童生徒の悩みや人間関係のトラブル、家庭のこと、学業――問題が小さなうちならパッチをあてる程度で済みますが、傷が大きくなって開いてからでは縫ってもきれいに治るとは限りません。

 また市庁舎に「推進室」があって、子どもや親が直接相談できるというのも優れた仕組みです。教師の方がいくら敷居を低くしても、それが高すぎると感じる人はいくらでもいるからです。本来は教育委員会の中に置くべきものですが、“市教委による隠ぺい”が大きな問題となった大津市では難しかったのでしょう。「教委の外」ということが市民に安心感を与えているのかもしれません。
 とりあえず大津市のこの試みが、最低基準として全国に広まっていってほしいと、私も願います。


【しかしやはり「クロ現+」もダメだった】
――と、ここまでには大きな不満はないのです。細かな点で異論はあっても25分の番組ですべてを網羅せよとは言いません。
 しかしこの回の「クローズアップ現代+」はまったくビミョー。はっきり言ってまるでダメな番組でした。それは最後の10分間のまとめの部分で起きたことです。

「こうした取り組みを全国に広めていくための課題は?」
という司会者の問いかけに尾木直樹氏はこう答えるのです。
「大津のみたいに(学校に)ずーっと深く入っていくことを躊躇する首長さん、市長さんがおられるんですね。教育委員会は独自性を戦後ずうっと保ってきましたから、あまりにも介入してはいけないんじゃないかと考えている。
 また責任を持ちすぎて重荷になるのは嫌だなあと思われる市長も少なくないような気がします。命のことが第一ですから縄張りのようなことは言っていないで、やってほしいなと思います」

 私は最初、何が語られているのかさっぱり分からず戸惑いました。そしてようやく尾木氏やNHKが、大津市の取り組みの広がらない理由として、「首長直属の『推進室』が教育委員会の領域を侵すことへの首長自身の抵抗感」を考えているのだと気づいてびっくりしたのです。

 司会者はさらに
「いじめそのものをなくすためには何ができるでしょう」
と問いかけ、尾木氏はこんなふうに答えます。
「一番は大切なのは先生方の感性。先生方がパッと心が動いて、『ああ、あの子は笑っているけどつらいんだな』とパッと気づける感性。人間性豊かな先生になってもらいたいと思います。
 ところがいま労働問題などでも一日11時間半も働いているとか、もうこれでは完全に無理なんですね。
 だから社会的な支援というものをいろいろな形で、PTAもメディアも『社会的支援で学校をバックアップしているよ』ということを、メッセージで出していくことも重要です。スポット(広告)でもいいから『いじめなくしましょう』というのでも、テレビで流してもらえると嬉しいですね。
 そして人権が尊重される、誰もが安心安全な学校を作っていくという一点で、みんな力を出しててもらえると嬉しいと思います」
 
さらに、
「いじめをなくすことはできますか?」
「これは出来ます。世界の動きを見ていると必ずできます」


 ここまでくるとほとんど支離滅裂としか言いようがありません。

 結局教師の感性・人間性に帰納するとしたら、大津の例など必要ないはずです。しかも教師の感性・人間性を高めても
一日11時間半も働いているとか、もうこれでは完全に無理なんですね
という話になるなら、そもそも何のためにその話を持ち出したのか――。
 さらにその結果「労働時間を減らす」方向に話が行くと思ったらそうではなく、
PTAもメディアも『社会的支援で学校をバックアップしているよ』ということを、メッセージで出していくことも重要
 つまり声で応援していくという話になる――。それで
人権が尊重される、誰もが安心安全な学校を作っていけるものでしょうか?

 いじめをなくすことは――出来ます。世界の動きを見ていると必ずできます
 世界の動きが人権を尊重に向かっているとは思っていませんでしたが、、トランプ大統領やプーチン大統領、金委員長やドゥテルテ大統領、移民の流入を嫌ってEUを離脱したイギリス国民、劉暁波氏を手厚く葬った習近平主席らととともに、私たちはいじめのない世界をつくっていくしかないのでしょうか?


【大津市のすごさ――いじめ問題は金で解決できる】
 大津市から学ぶべきことは、全国の首長は教育委員会の領域を侵すことを恐れず、直接介入して指導をせよということではありません。そんなことを言えば、教育勅語をやらせたい首長さん、国歌を全員にきちんと歌わせたい首長さん、あるいは自分好みの教科書を使わせたい首長さんなど、みんな喜んでホイホイ行ってしまいます。

 そうではなく、大津市の取り組みで最も優れていて他市町村が真似できそうにない点は、「いじめ対策担当教員」配置のために毎年2億円もの予算を当てて講師を確保しているということです。「いじめ対策推進室」が使う年間予算も合わせると、たいへんな金額がこの事業につぎ込まれています。

 しかもこの事業はうまく機能している限り“何も起きない”
 道路建設やイベント実施のように、“予算をつぎ込んだら何かが起きた”というなら説明しやすいのですが、“何も起きない”ことが成果だと説明するのは非常に難しい。
 仮に大津市のいじめ件数や不登校が大幅に減ったとしても、それが「担当教員」や「推進室」のおかげだということや、2億円の価値があるということを証明するのはとても困難なのです。
 それを大津市はやり続けている−―。
 皮肉な言い方をすれば2011年にあれほどの大きな事件を起こした大津だからできたことなのかもしれません。それでも他の市区町村に広げられないものか――そこが一番の課題です。
 30年もやっている一流の(と言われる)教育評論家なら、まずそこから答えるべきでしょう。

 私は尾木直樹という人がバカだとは思いません。ずるい人だと思っています。
「日本全国の市区町村は大津に倣って『いじめ対策担当教員』を配置すべきだ」などと言ったら日本中のどこからも講演会に呼んでもらえません。自分が招いた講師がそんなことを言い出したら、首長は困るに決まっているからです。
 逆に「首長はもっと直接的に学校教育に関わるべきだ」と言えば、喜んで声をかけてくれます。

 NHKもバカではありませんからそんなことは百も承知ですが、尾木レベルの評論家を最後に置かないと、番組が締まらないから来てもらったのでしょう。

 一番最後の司会者のまとめ、
「いじめをなくし子供の命を守ることは待ったなしの課題です。子どもを学校任せにするのではなく、私たちも当事者として、社会全体で支える段階に差し掛かっています」
 この言葉の虚しさは、そうした妥協から生まれたものなのかもしれません。


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2017/7/20

「更新しました」  教育・学校・教師



「キース・アウト」

2017.07.20
理科実験で爆音、生徒18人病院へ 加東の中学

携帯ではリンクがうまく接続できません。記事はリンク先の下の方にあります。



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2017/7/20

「7・18NHK『クローズアップ現代+』のどこが微妙だったのか」@  教育・学校・教師

             〜取手事件から学ぶこと

 7月18日の「クローズアップ現代+」は「なぜ続く“いじめ自殺”〜子どもの命を救うために〜」というタイトルで、茨城県取手市で女子中学生中島菜保子さんが自殺した事件を通して、なぜ学校・市教委はいじめを疑わせる多くの証拠がありながら当初これを「いじめ」と認めなかったのか、どうすればいじめ問題の根本的な解決につながるのかを考える番組でした。
 子どもを亡くされた家族に一方的に寄り添うのではなく、学校・教育委員会などの立場も配慮しながら深く突っ込んでいこうとする意欲的な番組だったと思うのですが、それでもなお違っていた、ピントがずれていると感じたのでそのことについてお話しします。
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【取手市女子中学生自殺事件】

 取手市の女子中学生自殺事件というのは先月のこのブログで扱っており(2017/6/2「取手市教委で何があったのか」)、事件の概要はそちらにまとめてありますので参考にしていただければよいのですが、「クローズアップ現代+」はその中で、市教委が行ったとされる聞き取り調査を問題にします。調査用紙には「いじめ」や「自殺」という具体的な文言は使われておらず、そのために大切な証言が引き出せなかったのではないかというのです。
 例えば質問項目のひとつ、
「菜保子さんが学校生活で悩んでいるようだったのですが分かることはありますか」

 そこで当時調査に当たった教育長に質すと、子どもたちを動揺させないための配慮だったと証言するのです。
「あまりそのことがはっきり分かるような調査ができないというところに(生徒たちへの)配慮があったために、質問がぼやけてしまったり、もうちょっと突っ込んで調査もしなくてはならなかったと思う」
 このとき調査に当たった別のひとり、次のように言います。
「生徒にいじめの疑いをかけるということは非常に重たいかなと。いじめの疑いがあるとすると、生徒は『自分たちがやったことで亡くなったのか』と思うじゃないですか。何かあったときにも、生徒たちを決して犯人扱いしないのが原則なんです。目の前で見てないかぎりは。もし万が一間違ったら大変じゃないですか。」

 何かあったときにも、生徒たちを決して犯人扱いしないのが原則
 NHKもあとで同じ言葉を断定的に使っていましたが私はそうは思いません。目の前で起こらなかったことは不問というのでは正義は通りませんし、たいていの悪事は大人の見えないところで行われます。
 不問に付した陰で犯人がせせら笑っているようならその子に間違ったメッセージを与えたことになりますし、深く後悔しているのなら、そんな子に贖罪の機会を与えず放置するのはあまりに酷です。何かあった時には必ず犯人をあぶり出し必要な対応を行わなくてはなりません。


【調査が甘くなった理由】
 ただしそれにもかかわらず、私は徹底した調査をためらった学校や市教委が理解できないわけではないのです。
 菜保子さんが亡くなったのが中学校3年生の11月11日。翌月には調査結果がまとめられたといいますから、生徒への聞き取りは11月中旬から12月にかけてのいずれかの時期に集中的に行われたと思われます。しかしそれは私立高校では願書提出・入学試験も始まろうという時期です。
 学校や教委が極端に神経質になっていたのも分からないではありません。「受験をひかえた菜保子さんの個人的な悩み」という可能性に心惹かれたとしてもやむをえない側面もあったのかもしれません。

 もし万が一間違ったら大変じゃないですか。
の深刻さは、調査がこの時期でなかったら起こらなかったのかもしれません。もちろん間違ったら大変なのはいつだって同じですが、無実の者が犯人扱いされ、動揺して受験に失敗でもしたら取り返しがつきません。学校や市教委が犯人扱いしなくても、子どもたちが自らが「自分のあのときの一言が彼女を追い詰めたのかもしれない」と思い詰めるとしたら、それも心配です。
 
 もちろんだからと言って調査の甘さを認めるわけではありません。要はやり方次第ですから、調査にあたってはもっともっと慎重に、しかし遺族に寄り添うものでなければなかったはずです。


【もう一つの要素】
 「クローズアップ現代+」は学校・市教委・第三者委員会がいじめを認めなかったもうひとつの原因を拾い上げます。それは「いじめを認めるとそれが自殺の原因と認めることになりかねない」という組織の論理です。
 それをゲストの教育評論家尾木直樹氏が次のように補足します。

 そこにある大きな原因というのが、担任(自分)が責任を取るのは取れるけれども、でもこれは校長にも迷惑がかかるし、教育長にも迷惑かかると。結局は損害賠償とか係争になったときには、大変な金額の損害賠償も関わってくるということを、どんどん入れ知恵されてくると、先生方の口が固くなってしまって、悩みながらも本当のことが言えない、そういう状況に追い詰められてるというのが真相じゃないかなと思いますね。

 それはもちろんその通りかもしれませんが、それでは担任が(あるいは校長や教育長が)積極的に「いじめ」を認めることがいいことかというと、必ずしもそうは言えないと思うのです。

 十分な調査検証もしないでままいじめの事実を認め、いじめが自殺の原因だと暗示(または明示)することは、担任や学校が防ぎえた自殺を防がなかった認めることです。さらに言えばそこには必ずいじめの犯人がいますから、彼(または彼女)が被害者を追い詰め死に至らしめたと教師が(校長が、教育長が)断定することになります。
 これについてはもう何度も書いてきたのでこれ以上の深入りはやめますが、責任を取るべき範囲と人が明らかにならないうちになんでもかんでも認めてしまうのは、結局、不誠実であるのと何ら変わりがなくなります。

                              (この稿、続く)

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2017/7/19

「あなたのように」  人生

〜私はかくありたい

 まだ結婚する以前、同じ独身仲間で酔うと宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を朗々と暗唱する先輩がいました。

〔雨ニモマケズ〕
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル・・・

そして延々と語り続けて、秀逸なのは最後の数節、
ミンナニデクノボートヨバレ 
ホメラレモセズ  クニモサレズ

 そう詠って最後の最後が

そういう人を、

妻に持ちたい!!


 それがオチです。

 その先輩はしばらくすると結婚してしまい(奥さんがどういう人か私は知りません)、この芸は私に受け継がれました。ところがやってみると実に難しい――。
 とにかく長いし古いし、飲んでいる最中に宮沢賢治を持ち出すのは教養をひけらかしているみたいだし、ということで聞き手が途中で飽きてしまうのです。そうなるとオチがオチでなくなってしまいます。
ですからそれをどうやって防ぐか、終末に向けていかに意識を呼び戻すか、そこが腕の見せ所で、私はその後も独身が長引いたので修行の時間もたっぷりとれ、腕もずいぶんあげました。
 ところがさらに独身が長引くと「妻に持ちたい」がだんだん悲哀に満ちた感じになってしまい、しかたなくそこを「友に持ちたい」に変更して持ちこたえます。少なくとも初めて聞く人には大うけだったからです。 


【しかしそれは、あまりにも気高すぎる】
 私が茶化して遊んでいた「雨ニモマケズ」、しかし改めて読むと何年たっても色あせない、賢治の想いの切々と伝わる素晴らしい詩です。
 このブログでも一度あつかったことがありますが、(「雨ニモマケズ」2011.04.15)、東日本大震災の翌月、ワシントン大聖堂で追悼と祈りを込めて朗読されたという英語版もそれなりに素晴らしいものでした。

 ただしその内容を賢治の夢ではなく、自分自身の目標としてとらえるとそれはあまりにも重すぎる、気高すぎる――なにしろ、
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ですから。
 昔だったらまだしも安逸に慣れた今日、とてもではありませんが全部を読み上げた後で
 サウイフモノニ ワタシハナリタイ
とは言えない、言うこと自体がおこがましい、口に出す端から“やっぱムリだな”という分かってしまう、そんな気がしてきます。
「雨ニモマケズ」は座右の銘にはしにくいですね。


【あなたのように――】
 ところが最近「雨ニモマケズ」に似て、しかも程よい素晴らしい詩に巡り合いました。それは何の気なしにつけたテレビの中から聞こえてきたのです。

 サビの部分らしくゆったりと大きな抑揚のあるメロディーで、しかも妙に懐かしい感じもする――そんな曲で「あなたのように」と言っています。かんぽ生命のCMです。

 一度目はテレビから離れたところで、音だけを聴いていたので間に合いませんでしたが、二度目は間に合って画面下のテロップを読むことができました。そこには『DREAMS COME TRUE 「あなたのように」』と書いてありました。
 いい言葉です。

 慌ててネットで調べると2016年5月のリリースで、元々「かんぽ生命キャンペーンソング」として書き下ろしたものだそうです。だからもう一年以上も繰り返し流れていたのかもしれません。懐かしいと感じたのも知らず知らずのうちに聞いていた――そういうことなのかもしれないのです。
 そこで早速Youtubeで確認するとこういう曲でした。(画像をクリック)
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 その中で私を捉えたのは次の部分です。

 あなたのように つよい人で やさしい人でありたい
 迷うときには道しるべに そっとなってくれる人


 曲全体は宮沢賢治と同じ立ち位置で、自分が理想とする人の素晴らしい部分を数え上げそのようにありたいと謳いあげるものですが、宮沢賢治よりは私たちに少し近い、これなら少しぐらいなら近づけるかもしれないと思わせる、そういうレベルのものです。


【思い出】
 文学作品と出会うことの喜びのひとつは、自分が表現したいと思っていながらできなかったことを他の誰かがやってくれたと感じたとき――簡単に言うと「ああ、これがオレの言いたかったことだ」と思う瞬間です。
 しかし私がこの曲から感じたのは少し違っていて、敢えて言えば、
「この曲には記憶がある」
「オレはこれを知っている」
「これは自分が高校生のころ、いつも思っていたことだ」
といったものです。それを思い出させてくれた――。

 それは今はほとんどなくなってしまった薄暗い「純喫茶」と呼ばれる店内の風景です。
 私は当時仲の良かった同級生の女の子と、“人生”の話をしていました。自分はこんなふうに生きていきたいんだ、こんなふうに人の中にいたいんだと、ずいぶん意気込んで熱心に話していたと思います。ただそれは快活というふうではなく、むしろ悲痛な感じだったのかもしれません。当時の私はかなり面倒くさい青年でした。
 そのとき彼女は、私の言葉が途切れたのを見て、静かにこう言ったのです。軽蔑の色もなく、尊敬するでもなく、ため息をつくように。
「T君は神様になりたいんだよね」
 それで私は理解したのです。単純な反応でした。
「ああ、オレは神様になるんだ」
 それはなんだか絶望的な感じでした。

 もちろんその後そうした生き方をしてきたわけではありません。十代の意思に反して私はどんどん穢れて行き、その間何度も回心し、思い直し、ああやはり神様のように強く優しく誰かのためだけに生きるような生き方をしたいと思い、そして崩れ、堕落し、また思い直し、そしてやがて忘れてしまった――。
 若い頃の私の日々はそういうものだったのかもしれません。

 それほど悪い人生を送ってきたわけではありません。しかし若いころ真剣になって誰かのために生きようと思った、そういう強さはその後二度と戻ってこなかったようなのです。
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2017/7/18

「本業が休みなので本業に十分取り組めるという不思議」  歴史・歳時・記念日

     〜「海の日」の話

 皆さま、「海の日」を含む三連休、いかがでしたか?
 私はサンデー毎日なのでどうということはないのですが、まだフルタイムで働いている妻が三日連続で在宅し、
「タンスにゴン!女房、元気で留守がいい」
(妻が家でウロウロしているので避けて歩いていたらタンスにぶつかってしまった)
の感を深くしています。

――というのはヨタ話ですから信じなくていいのですが(ホントの成り立ちについてはWeblio辞書、引き続きYoutubeでご確認ください)、平成8年(1996)年から施行された「海の日」について、私は特別の思い出を持っていますので、そのことについてお話しします。
 それは学校の先生たちにとって、涙が出るほどうれしいものだったのです。
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画面中央は婿のエージュに抱かれた孫のハーヴです(見えない)

 もっとも最初に「海の日」が制定されたときは7月20日という設定が微妙で、学校ではこれをどう扱ったらいいのか困惑しました。というのも、もともと夏休みの初日が22〜23日あたりでしたので、20日に祝日が入ると1日休んで1日登校し、その翌日には終業式といった変な感じになってしまうからです。
 さりとて20日を夏休み初日に繰り込んでしまうと8月31日まで総計で43日という、あまりにも長い長期休業になってしまいます。
 別に40日であっても50日であってもいいじゃないかと思われる人もいるかもしれませんが、そうはいきません。実は長い休みはお母さんたちにめっぽう評判が悪く、学校にとってもろくなことがないからです。


【親も学校も子どもの長すぎる長期休業が嫌い】

 無理もありません。毎日ギリギリでお勤めしておられる家庭では、朝の忙しい時間に昼食の準備をして出かけるのは容易ではないからです。特に夏のことですから冷蔵庫に入れられるものにも制限があります。温め直しに子どもだけで火を使わせるのも心配です。

 さらに問題なのは日中の子どもをどうするかということです。
 小学校の低学年なら学童保育に押し込んでしまえばいいのですが(それとて弁当を作るという大問題=「他のお母さんと比べられる」が立ちはだかります)、高学年以上、特に中学生ともなると部活以外行くところがなく、日中の大半は野放し状態なのです。
 もちろんそれできちんとできる子も少なくないのですが、そうでない一部については親も学校も、社会全体も不安です(社会全体は大げさか?)。
 長期休業は短ければ短いほどありがたい、そう考える親は少なくはありません。

 一方、夏休みが長くなりすぎることは学校にとっても深刻な問題です。授業時数が足りなくなる可能性があるからです。
 細かな説明は欄外に回します()が、学校の授業日数は200日以上ないと指導要領の規定が満たせない仕組みになっているので、40日を越える夏休みはかなり困難なのです。

 そうしたあれこれがあって結局、「海の日」はそのまま単独の祝日としておいておき、21日から登校し、22日あるいは23日ごろ終業式を行って夏休みに突入するというのが大勢となりました。


【これがめっぽう評判が良かった】
 ところがこれが、めっぽう先生たちから評判が良かったのです。
 なぜか?
 通知票が十分に書けるからです。

 通知票についてはこのブログでも再三あつかっていますが、どれほど大変かという話は「通知票の話」(2012/7/24)に、どれほど重要かという話は「通知票の季節ですが・・・」(2007.07.17)にありますので改めてお読みください。

 いずれにしても通知票は学校が作成しなければならない公文書でもないのに、校内でつくる最も重要な文書で、それなりに教員の使命感を刺激する存在です。

 本ブログでも何度も書いているようにそれは、
@多くの場合その子の手元に一生残るものであり、
A担任のがその子をどう見ていたかを示す、動かぬ証拠であり、
B時にはその子の生き方そのものにも関わる、
ものだからです。
 ゆめゆめ疎かにあつかっていいものではありません。そのために大変な時間とエネルギーがかかり、だから遅れる――。特に一学期の場合、教科担任だけの関係だったりすると生徒がしっかりとつかめておらず、滅茶苦茶に神経をすり減らす作業になります。

 その神経質な作業のための時間が「海の日」のおかげで終業式の直前に、丸々一日確保されるわけですからほんとうにうれしかった――。
 実際には悩む時間が一日増えただけ、といったふうもありましたが、とにかくギリギリまで引っ張っても1日あるというのはけっこうな安心感だったのです。

 その「海の日」も2003年から7月第3週のハッピーマンデーに回され、「お得感」も何となくなくなってしまいました。しかしそれでも頼りになる1日です。
 
 以上、クソ暑い中でタオルのねじり鉢巻きをしながら必死で通知票を書いている妻の横で、時々「この表現、どう?」と相談されながら、あれこれ考えているうちに思い出したことです。

 それにしても、学校が休みだから学校の仕事が十分できると喜んでいる教師の姿、客観的に見ると気の毒でかつ滑稽とも言えます。
 いや、滑稽でかつ気の毒なのかな?
 いずれにしろ、世の中の人には理解できないでしょうね。
「学校の常識は、社会の非常識」と言いますから。


付記「夏休みが長くなると授業日数が足りなくなる仕組み」)
 簡単に言ってしまうと学校の授業日数は200日以上ないと指導要領の規定が満たせない仕組みになっていて、1年間に授業日数が200日、土日休業が104日ほど、祝日が平均で15日ほど、これで合わせて319日程度になります。これを365日から引いた46日が長期休業に振り向けられる日数となります。

 先ほど7月20日から8月31日まで休むと43日間の長期休業と書きましたが、その中には土日・祭日(山の日)が合わせて13日ほど含まれますから、実際に休みにするのは33日間となります。先ほど計算した長期休業に振り向けることのできる46日から33日を引いた13日は、これを年末年始休み・年度末休業に振り分けることができます。
 もちろんこちらも土日を間に挟んだり端にくっつけたりして全部で20日間ほどになりますが、冬休みを10日間ほどとると年度末休みも10日になってしまいます。これはきつい。
 前年度の終末処理、新年度準備、とてもではありませんがやり切れるものではありません。

 実は、学習指導要領に定められた標準授業時数というのはけっこう曲者で、かつては「基準なんだから多少は足りなくてもいい」という見方もありました。そのため自治体によっては大きく時数を下回る地域もあって、年間登校日数を比べると180日程度から210日以上と30日も開きがあったのです。

 学力問題が広まってからはこれが問題となり、2002年の学習指導要領以降は文科省より「標準時間は最低基準だ」という指導が再三入るようになって、授業日数も200日以上でほぼ定着しました。もともと十分な日数を確保していた都道府県はよかったのですが、地域によってはそのために夏休みがグンと減ったところもありました。



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