2018/1/16

「もしかしたら現金はなくならないのかもしれない」〜答えのない問い3  教育・学校・教師


 明日は阪神淡路大震災の22回目の祈念日です。亡くなった方々やご家族の皆様に、改めて哀悼の意を表したいと思います。突然の肉親の死は何年たっても癒されないことと思います。
 私も一緒に祈りましょう。
クリックすると元のサイズで表示します

 さて、阪神淡路大震災についてはさまざまに思うこと考えることがあるのですが、そのひとつは安否確認について、世の中にはほんとうに頭の良い人がいるものだとつくづく感心した思い出です。


【いち早く安否確認をした人々】
 1995年1月17日の地震直後から、私は兵庫県に住む友人に毎日20回以上の電話をかけ続けました。しかしご存知の通り、被災地内部から外への通信はできても逆は全く通じません。回線は完全にパンク状態で、結局連絡ができたのは5日後のことです。おそらくほとんどの人が同じ状態だったのではないでしょうか。
 ところがそんな中にあって、当日、驚くべき手段を使ってわずか数時間で安否確認を果たした人たちがいます。
 何をしたのかというと、電報を打ったのです。

 さすがに被災地のど真ん中は無理にしても、周辺なら即日、しかも直接手渡してくれるのです。「緊急定文電報」(“至急連絡されたし”などの53種の定型文のみの電報)だと料金はたったの340円(税別)。それで折り返し相手から電話がきました

 その日すぐに“電報”に思いが至った人たちの、すばらしい知恵に対して私は深々と頭を下げます。なんであの瞬間に古臭い“電報”を思い出すことができたのか――翻って私。5日間もむなしく電話をかけ続けた自分は、なんと阿呆だったことか――。


【各国の通信事情=リープフロッグ】
 韓国や中国、台湾などと比べた日本のスマートフォン普及率の低さは飛びぬけています(韓・中・台―91%・79%・82%、日本59%)。その他、発展途上の国と比べたってマレーシアは81%、ナイジェリア67%、ベトナム72%と、日本のはるか上を行っています。
 いまだにガラケーが横行しているというだけでなく、固定電話どころかFAXまで使われていて、街を探せば公衆電話ボックスだってあるのです。

 そんなところから「日本は遅れている」という評価がありますが、果たしてそうでしょうか?
 そうではなく、古い通信手段が残っているといことは「多様性がある」というふうには考えられないでしょうか。

 今の日本には携帯がだめなら固定電話あるいは公衆電話、通話ができなければとりあえずFAXあるいはPCメール。それでもダメなら電報、郵便、他に方法がなければ宅配便と、情報を届ける方法はいくらでもあります。
 ところがリープフロッグ(カエル跳び)でいきなり最先端技術の導入から始まった国々は、固定電話どころか郵便制度の拡大すら望めません。電報なんて絶対だめでしょ。
 文書・書類・冊子は、すべて電子化してネット上を飛ばせばいいのですから。

 しかしそれでいいのか。ネットが唯一の通信手段となってそれがつぶれたとき、他に通信の手段が全くなくなってしまう社会は極めて脆弱というしかありません。
 運送だってトラック・鉄道・船舶・航空機といろいろそろっていて、何かあってもひとつは生き残って仕事をするというふうにしてはじめて安定します。
 現金だってただ銀行に預けるだけでなく、貴金属を買ったり土地やマンションにしたり、あるいはそのままタンス預金にしたりもします。
 つまり多様性というのは安全だということなのです。


【もしかしたら現金はなくならないのかもしれない】
 昨日の課題、
 近い将来、電子決済が売買の中心になることが分かっている状況で、計算ができるようになることや現金のやり取りのできることに何の意味があるのか――。
に対する答えのひとつは、もちろん、
「明日そうなるわけではない。そうなるまでのつなぎの期間、やはり現金のやり取りができ、お釣りの計算ができることは必要だろう」
です。

 しかしそもそもこの国に現金のない時代なんて本当に来るのでしょうか? これだけスマホが広がっている中で、なおもガラケーや固定電話や公衆電話や、果てはFAXやら電報まで残っている国です。これほど便利で確実な現金のなくなる日なんて来ないのかもしれない――なんだかそんな気がしてきました。

 私たちは海外旅行に出かける際も、現金とクレジットカードの双方をもっていきますよね。行先によってはドルよりも円の方が便利な国もありますから、円札・ドル札両方を持っていくこともあります。さらにトラベラーズ・チェックが一番都合いいということだってあって、その場合は別に用意します。要するに危険分散です。

 それと同じで、電子決済だけでは私たちは決して安心できません。
 スマホだと電源が落ちただけで使えなくなります。スリにあったり置き忘れたり、あるいは事故で壊してしまったらその段階で身動きが取れなくなります。
 ニューヨーク大停電や東日本大震災のように、店舗の側が停電になるとクレジット・カードも使用できるかわかりません。金の延べ棒やネックレスは買い物には不便でしょう。

 現金は体のあちこちに分けて持てますし、一か所にまとめることもできます。軽くて薄っぺらで持ち運びに便利です。
 高額を持ち歩くことも、少額で済ませることもできます。
 そして何よりも、その日使える金額の上限が常に意識できます。盗まれてもそれが限度です。

 また日本の場合、紙幣も硬貨もたいていは衛生的で、偽物をつかまされる心配もめったにありません。
 現金は極めて便利なのです。
 さらに、最後に頼れるのは現金だという思想ないし信仰も、案外息が長いのかもしれません。

 現金のやり取りを前提とした教育、もうしばらく続けていく必要がある気がしてきました。







2

2018/1/15

「お釣りの計算はできなくてもいい?」〜答えのない問い2  教育・学校・教師


 先週金曜日、カーラジオでテレビ放送を聞いてたら、子どもに関する視聴者の相談を、タレントたちが話し合う番組をやっていました。
 その中に出てきた相談のひとつ。

「小学2年生の息子に買い物を頼む際、電子マネーを持たせた。買い物は無事済んだがそのことを夫に話したら、『電子マネーじゃない方がよかったんじゃない? お金のやり取りも含めて買い物だろ』と言われた。
たしかにそれも分かるが、これからは電子マネーの時代、いつでもお金を持ち歩く時代ではないと思うのですが」


(↑クリックすると当日の動画が見られます。Youtube)

 スタジオのコメンテーターたちは概ね夫側と同じ考えで、小さなころにお釣りをもらうとかお金が足りなくなるとか、小銭が増えちゃうとかいった経験をして感覚をつくっておかないと、電子マネーはいくらでもモノが手に入る魔法のカードになってしまう、危険だ、といった意見が大勢でした。視聴者アンケートの結果も持たせるべきではないという回答がほとんどです。

 しかし相談者やコメンテーターのひとりの言った、
「のちのち小銭とかはいらなくなる時代になるので、電子マネーを使わせることに問題はないのでは」
という考えも無視できるものではありません。オンライン決済や電子マネーの世界ではそもそも「お釣り」という概念がないのですから、将来そうした時代が来るとしたら「お釣り」の学習は何の意味もありません。

 また魔法のカードが心配なら、子どもに持たせるのはプリペイドのカードだけにして、
「これには1000円しかチャージしてありません。友だちにおごっても何をしてもいいけど、来月まで1円も余計には入らないから、そのつもりでね」
とやれば済むだけの話です。


【お釣りの話】
 お釣りと言えば、実川真由 /実川元子 著「受けてみたフィンランドの教育」(文藝春秋 2007)の中にとても印象深い話がありました。それは著者である留学生がフィンランドのホストファミリーと一緒に買い物をした時のことです。

 合計が24ユーロ22セントだったので、私は54ユーロ72セントを払ったら、スーパーの人は、嫌な顔をした。
 そこにホストブラザーが慌てて来て、4ユーロ72セントを取ってしまった。50ユーロで支払ったので、おつりが大量にきて、私の財布が重くなった。

 (中略)
 それほどフィンランド人は暗算をしようとしない。レジではじめて自分の買った品物の合計金額を知るらしい
 フィンランドが学力世界一と言われてもてはやされていた時期の話です。

 なぜそんなに計算ができないかというと、
 フィンランドの高校では、数学のテストのときに持ち込むものが二つある。筆記用具と計算機だ。
 数学のテストに計算機が持ち込めるなんて夢のような話であるが、事実だ。しかもこの計算機はただ「足す」「引く」「かける」「割る」だけの機能にとどまらない。( )のついた難しい数式も一瞬にして答えが出る。数式を打ち込み、エンターを押せばx軸とy軸が現れ、数式がグラフになったりする(なんだか、とても数学ができない人のような説明になってしまったが)。

(中略)
 このように、自分で書いて計算するという行為は高校ではしなくなるため、フィンランド人は暗算が不得意だ、というか暗算をしない。

 これは本質的に「子どもに電子マネーを持たせて良いのか」と同じ話です。電子マネーの時代が来るのになぜお釣りの学習をしなくてはならないのか、電卓がある時代に、なぜ暗算やひっ算を学ぶ必要があるのか――。

 2007年の段階では、
「だって中に書いてあるじゃないか。『おつりが大量にきて、私の財布が重くなった』って。それに店側にしても、レジの引き出しが高額紙幣ばかりで釣り銭不足になったら困るじゃないか。暗算ができて適正に支払うのは、両者にとって利益だ」
という反論も可能です。しかし今や電子決済の時代、フィンランドだって(というかフィンランドこそ)みんなカードやスマホでピッピッとやっているに違いありません。

 そういえば古いアメリカ映画で買い物の様子を見てると、18ドルの買い物をするのに客が10ドル札を二枚出すと、カウンターにその20ドルと品物を並べ、品物の隣に1ドル、2ドルと紙幣を置いて「ホラ、こちらがあなたの20ドル、こっちが品物と紙幣で合わせて20ドル分、交換しましょ」みたいなやり取りの場面が出てきます。
 確かにこんな国では電子決済が発達するわけです。

 その他、詐欺の横行する国、紙幣の交換が進まず紙幣がベトベトでとても触れたものではない国、そういったところでは電子決済が進みます。日本はそのいずれでもありません。にもかかわらず電子決済が売買の中心になる――それはそれで議論になるところですが、そうした状況で、計算ができるようになることや現金のやり取りのできることに何の意味があるのか――こちらも大きな問題です。

                                (この稿、続く)

1

2018/1/12

「出生前診断」〜子どもたちは生まれる前から選別される  教育・学校・教師


 昨年末に終わったTBS金曜ドラマ「コウノドリ」についてひとこと書いておこうと思ったのですが、他に書くことがあり、今日まで延び延びになってしまいました。

クリックすると元のサイズで表示します

 「コウノドリ」は今回が第二節で、前回も興味深く見ました(2015/11/17「テレビドラマ『コウノドリ』のリアリティと原作マンガの裾野」)が、今回も全11話、丁寧に見させてもらいましたが、その中で特に心に残ったのが第10話(12月15日)の回です。
 出生前診断にかかわる物語で、胎児がダウン症と判定された二組の夫婦が、それぞれ苦悩の末に別々の判断に行きつくというものでした。

 すでに成長した子がひとりいる中年間近の夫婦は、自営業や家庭の状況から中絶することを決意し、もう一組の若い初産の夫婦はいったんは周囲に説得されて諦める覚悟をしたものの、妊婦は処置室の前で動けなくなり、出産へと方向転換をします。

 どちらの夫婦にも葛藤あり、二つの違った決断のどちらがよかったかは一概に言えません。ドラマの登場人物たちもどちらか一方を支持するというのではなく、それぞれ親の意思を尊重する形で物語を終えます。
 
 すぐれた終わり方でした。しかしそれは同時に問題を視聴者に投げかけ、“こういう事実がある、それに対してお前はどう考えるのか”と問うものでもありました。


【私は頑固な反選別主義者だった】
 教員というのは何より子どもの平等を愛する人たちです。そういうものを持っていなくても、教職を続ける中で公平に扱うよう教育され、骨の髄まで浸み込んでいます。
「先生はいい子や優秀な子ばかりかわいがる」
と言われたりしますがそんなのは嘘っぱちです。いい子や優秀な子なんて可哀そうなくらいに放りっぱなし。
 どこの学校、どこのクラスに行っても一番時間をかけ、丁寧に扱ってもらっているのは世間で「悪い子」「ダメな子」と言われるような子たちです(優しく扱ってもらっているとは言いませんが)。注ぎ込まれるエネルギーの量が違います。

「悪い子」「ダメな子」と呼ばれるような子は、うんと時間や力をかけ、丁寧にしつこく育てていかないと心配なのです。憎まれても嫌われても、力づくでも何とかしてやりたいと思うのはそういう子たちです。その子たちを排除しては教育は成り立ちません。

 そうした教師の立場からすると、出生前診断による子どもの排除など、最初から考えられないことです。
 すべての命は限りなく平等に扱われなければならない、不公平に生まれてきたならその部分を私たちが補わなければならない。生まれてこない方がよかった命などありえない――それが私たちの信念です。特別支援教育にかかわると特にその感は深くなります。


【一人の親としても】
 3年前、娘シーナが出産したとき、生まれた赤ん坊は新生児仮死の状態でした。数分間心臓が動かず、脳に血液の送られない状況が続いたため、のちの障害も覚悟しなければなりませんでした。その不安を数週間後、ふと漏らしたシーナに、私はこんな話をしました。
「仮に障害があったとしても、それが出産時の事故によるものかどうかは誰にも分からない。もともとそういった因子を持って生まれたのかもしれない。障害があるから不幸だというのも理由のない話だ。シーナだって『愛がすべて』と言ったじゃないか。
 さらに言えば、障害のない子がすべて順調に育つとは限らない。この間、危険ドラッグを吸って交通事故を起こし、3人もの人を殺してしまった子がいたよね。あの子だってたぶん20年前は健康な赤ちゃんだった。健康に生まれることと幸せになることは必ずしも一緒じゃない。それは何の保障にもならない。
 ハーヴはシーナとエージュの家に生まれた子だ。前にも言ったけど、それだけでハーヴは幸せの保障された子だ。それで十分だと父は思うけどね」

2015/10/2「いのちのこと」K〜それから

 どんなに重い障害があっても娘のシーナと婿のエージュはその子を大切に育てていくだろう、そして私たちも喜んで二人をバックアップするに違いない、それは自明のことでした。
 シーナも「そうだね」と答えて、二度と不安を口にすることはありませんでした。

 それ以後、ハーヴには障害の残った様子は見られず、私たちの覚悟も決心も試されずにきました。したがって実際に障害があった場合のことはわかりません。
 それでもシーナは仮に第二子ができても、前と同じように出生前診断を受けないでしょうし、どんな子が生まれてきてもそれを受け入れるはずです。
 ただしそれは我が家のできごとです。私の家はそうだというだけで、それが正しい判断かどうかは別問題です。


【事はそう単純ではない】
 さらに遡ること数年前、私は一人の保護者から難しい相談を受けることになります。
 その人の妹さんが初めて出産するにあたり、出生前診断を受けたところ18番トリソミーが見つかったというのです。21番トリソミー(ダウン症)と同じ染色体異常で、大雑把にダウン症と同じと考えていいでしょう。それで生むべきか諦めるべきかを迷っている。

「先生の奥さん、特別支援ですよね。その保護者の皆さんがどうお考えか、それを聞いていただきたいのです」
 ちょっと考えましたが、大勢の意見を集約するとなると妻では時間がかかりすぎます。担任と保護者はそうしょっちゅう会わないからです。そこで知恵を巡らせて、しばらく前、私が関係した障害者家族の互助組織のような会の代表者にお願いしてみることにしました。
 会員は皆明るく、前向きなお母さんたちばかりですから、きっと励みになる、いいお話が効けるに違いないと思ったのです。

 一週間後、定例会で話題にしていただいた結果が私にもたらされます。驚いたことに、お母さん方はこぞって生むことに反対だったのです。

 いま手元にいる子を愛すること、その子によってもたらされる幸せを感じることと、新たな命としてトリソミーの子を受け入れることとは別なのです。あるいは自分が受け入れることと、他人が受け入れることとは違う、そういう意味でお話しされた人もいたようです。
 私は問題の重さを改めて知るとともに、自分の浅はかさを恥じながら、聞いたことをそのまま相談者に伝えました。

 この話には後日談があります。
 結局相談者の妹さんは赤ちゃんを諦めたのですが、後に心を患い、婚姻も解消して実家に戻ってしまいました。自責の念が強すぎたようです。
 では生んでいれば良かったのかというと、それも分かりません。


【私たちは出会う】
「コウノドリ」第10話の結論はやはりそれしかないものでした。
 どちらの判断が正しいのかは分からない、しかしどちらであったにしても、周囲の人間は両親の決断を全力でバックアップしていくしかない――それが昨年12月15日の「コウノドリ」から学んだことです。

 教師としての私たちが障害を持つお子さんと出会うのは学齢期に達してからです。子どもがある程度しっかりして、親子関係や家族の形がある程度固まってからのことです。
 ですから私たちはその日までの家族の歴史を知らない。その決断や覚悟、葛藤や哀しみ、切なさ、喜びや嬉しさ、希望、夢、そうしたものを一切知らないまま、その子と向かい合うわけです。
 けれどその中身は知らなくても、そこに気高いもの、最重要で大切にしなくてはならないこと、敬意を払わなければならないものがあることはきちんと胸に据えておく必要があります。そしてその子とその家族を支えていく、それが私たちの使命だと思うのです。

 実際のその子は、悪戯もすれば聞き分けもなく、頑固だったりする普通の子なのですが。




3

2018/1/11

「人材」〜新しい意味を付与される言葉たち  言葉


 先月5日の当ブログで、
 娘のシーナは「直火(じかび)」を「ちょくび」と言って父親(私)を絶望させますし、婿のエージュは最近まで紅白歌合戦が男女別だということを知らなかった(中略)かくいう私も30歳過ぎまで「あさくさ寺(浅草寺)」と「せんそう寺(浅草寺)」が同じものだと知りませんでした(中略)。しかしそうした数々の無知は、圧倒的な“それ以外の知識”によって相殺され、“かわいいミス”くらいの扱いで見過ごされたりします2017/12/5「勉強ができないにもほどがある」〜なぜ勉強しなければならないのか2
 と書きました。

 しかしその“かわいいミス”にも“ほど”があって、会話や文章の冒頭にとんでもないミスがあったりすると話が先に進まなくなります。
 というのは、先日、成人式に関するネット記事を読んでいたら冒頭の一文が、
「私は成人式が嫌いな人材である」
で、それで一行も先に進めなくなったからです。
「人材」をこういうふうに使う文は読んだことがありません。


【正しいのは誰だ?】
 困ったのはこれが素人のブログ記事ではなく、天下のYahooニュースに寄稿した某大学の専任講師の記事だったからです。
 60年以上生きてきた私がまったく知らない表現だから「違うだろう」と思うのですが、同時に私は権威に非常に弱いタイプなので半分腰も引けています。言葉は生き物ですから、知らないところで形態を変えていたのかもしれません。

 そこで辞書を調べてみるとデジタル大辞泉で「才能があり、役に立つ人。有能な人物。人才」、大辞林(第三版)も同じ、Wikipediaでは「才能があり、役に立つ人物。すなわち社会に貢献する個人のこと。人才とも」。
 つまり私の感じ方は正しいわけで、世の中には「人材派遣会社」「シルバー人材センター」もいっぱいあるわけですからそう簡単に意味が変わるわけはないのです。ほっと胸をなで降ろしました。


【「じんざい」の4分類】
 しかしそれにしてもこの堂々たる書きっぷりはどうでしょう。

 しばらくしてまた不安になり、さらに調べるとアッと驚くページに出会います。そこにはこんな表現があったのです。

 初出はよくわかりませんが、人材関連のビジネス書やコラムを見ていると必ずと言っていいほどこの「人材」「人罪」「人在」「人財」の分類が登場してきます。
 仕事に関する姿勢としてその人の価値をうまく表現したものですが、そこから組織内で「人財」と呼ばれるような活躍をするにはどうすればいいかを考えてみます。

「仕事理論」〜人材、人罪、人在、人財の考え方

 その上でこんな図までありました。
クリックすると元のサイズで表示します

 要するに人材関連のビジネス書やコラムを見ていると必ずと言っていいほど出てくるありふれた表現だったわけです。したがってそちらに明るい人は自然に使える用語ということになります。(世界は広い!)

 しかしもう一度最初に立ち戻って当てはめると、この分類でも「私は成人式が嫌いな人材である」は理解できません。
「自分は今は専任講師の身だが実は将来性豊かな人間だ」ということを、ことさら表現する必要はないからです。
 もしかしたらさらに別の概念もあるのかもしれません。


【「じんざい」の2分類】
 そこでさらに調べていくと、今度はこんな文章にたどり着きました。
「社員は材料ではなく、財産として扱って大事にしているんです。だから部署名を人財開発部にしているんですよ」
とか、
「わが社は社員を財(たから)と思って経営してます」
という話を最近よく聞くようになりました。
 部署名も、人財開発部とか、人財採用チームなど、「財」の字を使う企業が増えているようです。
 こういった名称を使用している企業の多くは、
 人材=使い捨てにする材料
 人財=財産のように大事にする
という理解のようです。

「なべはるの人事徒然」〜「人材」「人財」の本当の意味
 これです。

 最初に引用した「私は成人式が嫌いな人材である」は(「自分は世間の使い捨てになるような人間ですが」と具体的には言っているわけではありませんが)要するにへりくだっているわけで「僕」や「拙者」と似たような使い方なのです。
 ようやく合点がいきました。


【言葉のこだわりは大切にしたい】
 合点は行きましたが「人材」のこうした使い方は、まだまだ一般的とは言えないでしょう(ちょっと自信がないけど)。少なくとも4分類の「人材」(将来性のある人)と2分類の「人材」(使い捨てにする材料)で意味が異なる以上、人材関連のビジネス書やコラムの中で限定的に使うにしても注意が必要です。ましてやYahooニュースです。

 もちろん語に対するこだわりは誰にでもあって、それは尊重されなくてはいけません。
 私だって「重複」を「じゅうふく」と読んだり「独擅場(どくせんじょう)」を「独壇場(どくだんじょう)」と書いたり読んだりするのは嫌です。いまでも「9組」の次のクラスは「10組(じっくみ)」であって「じゅっくみ」ではないと強く思っています。
 それは知識をひけらかしているのではなく、ずっと正しいと思う言い方をしてきたので異なる読みをされると耳障りだからです。気持ちに引っかかるのです。しかし耳障りで気持ちに引っかかりながらも、他人に対して指摘したり直させたりすることはありません。

 へりくだった表現としての「人材」を尊重しなければならない日はいつか来るかもしれませんが、「僕」や「拙者」と同じように使うためには、もう少し機が熟さなくてはならないでしょう。

 ところで図に引用した「じんざい」の4分類。
 60歳を過ぎた私に将来性を問われても困りますし、まさに「犬馬の歯 (けんばのよわい)」(←一昨日書いた)、犬や馬のようにむだに年齢を重ねてきたので「実績」といったものも残していません。そうなると私の居所は「人罪」の枠だけです。

「人であることが罪であるような存在」
 ――遣りきれませんなァ、もう。


*引用した『「仕事理論」〜人材、人罪、人在、人財の考え方』と『「なべはるの人事徒然」〜「人材」「人財」の本当の意味』はどちらもなかなか面白いものですので、時間のある方は是非ご一読ください。



1

2018/1/10

「答えのない問い」〜小学校英語は作文より大切なのか?  教育・学校・教師


 オバちゃんから電話がありました。
 オバちゃんと言っても親戚筋ではなく、中学校時代の同級生です。結婚して苗字が変わったのに、旧姓からつけられたニックネームで今も呼ばれています。

 中学生の頃はむしろ男の子みたいな爽やかな印象で、“オバちゃん”の愛称もかえって違和感がなかったのですが、中年になってすっかりそれらしくなると“オバちゃんをオバちゃんと呼んでいいのか?”という素朴な疑問に悩まされたりします。しかし本人が平気みたいですので、そのまま呼ばせてもらっています。

 さてそのオバちゃんは結構面倒くさい人で、日ごろ付き合いがあるわけでもないのに唐突に電話をかけて来て、無理難題を吹っ掛けることがあるのです。特に私が教員になってからは、学校や担任に対する不満をとりあえず私にぶつけて、その反応を見てから必要なら学校に出向くと、そんなやり方をしているフシがあります。
 ただしそれは私にとってもかなりありがたいことで、その都度、“ああ保護者は、こういうことをこういうふうに考えるのか”“こんなふうに答えたらどうかな”と勉強になったりしました。
 今回持ち込まれたのもこんな話です。

クリックすると元のサイズで表示します 

【学校文集がなくなる】
「あのさ、Tくん、孫の学校のことだけどさ」
 還暦を過ぎた私を“Tくん”と呼んでくれる女性がいるのは嬉しいことですが、中学の同級生と“孫”の話をすることには別の感慨があります。
「もらってきた学校だよりに『今年度を最後に、学校文集を廃止します』って書いてあるんだけど、これ、どういうことよ?」
 私はもう学校現場を去っていますし、オバちゃんの孫が通っている学校とは縁もゆかりもありませんから答えようがありません。
「説明はなんて書いてあるの?」
「それがさ、『1、授業時数の確保のため。来年度から英語も始まります。2、保護者の経費負担削減のため』と、それだけ。作文を書く時間もないってこと? 負担削減って、どんだけ皆さん貧乏なわけ?」
 それを聞いて私はハハンと思いました。
 日ごろから学校側に立ってものを考えることに慣れているので、大まかな想像はついたのです。


【作文指導は地獄、時間は果てしなくかかる】
 中学校の国語の先生がどう作文指導をしているかは知らないのですが、小学校についてはよく承知しています。ひとことで言って、とても大変です。

 特に学校文集というのは下手をすれば何十年も手元に残ってしまうものです。自分の分は抹殺してもかつての同級生が後生大事に保存していたりします。学校保管の文集を数十年後、図書館の隅で書いた本人の実の子が、ニヤニヤ笑いながら読む可能性だってあります。
「父ちゃん偉そうなこと言ってるけど、つまらねぇ小学生だったんだなぁ」
 そういったことにならないよう、担任教師は全力を尽くしますが、数十年後に恥をかかせないだけの優秀な文章を作らせるのは容易ではありません。

 学校文集は旅行記などと違ってテーマを狭く絞ることができません。基本的に自由ですから、校庭の真ん中で子どもを解き放ったみたいに、皆あっちこちに走り出してしまいます。そのいちいちを捕まえて指導するようなものなので大変なのです。教師ばかりが疲弊する。
 もちろん構成カードなどを使って書きたい内容をメモにして、それをあちこち並べ替えて全体構成を考えるといった工夫はします。しかしそんなのは優秀な子にとってむしろ回りくどく、一発原稿用紙に向かった方がはるかにいい作品ができたりします。その一方で、同じ教室にとりあえずカードすらかけない子もいたりします。
 そんなさまざまな子たちを教卓に呼びつけ、さまざまに話をしながらイメージを固め、子どもの頭に浮かんだことを箇条書きにさせ、いったん自席に返す。その間もカードや作文を見てもらいたい子は列をなして、すっかり飽きた子は後ろで喧嘩を始めたりする。

 信じられないくらいの速さ――例えば原稿用紙2枚分を30秒足らずで読んで問題点を紡ぎ出し、改善策を子どもと一緒に考え、話し、励まし、席に返してやるまでを都合2分で済ませたとして、35人学級で70分! 1時間(45分)の授業時間を25分も伸してしまうわけです。
 子どもの作文指導を2分で済ませたというだけでも心痛むのに、実際には授業中に全く見てやらない子が何人も出ているのです。だから作文指導の時間は4時間、5時間とやたら長くなる。優秀な子はその間、自習するしかない、そうでない子はいつまでも悩んでいる・・・。

 そうなるとここからが担任の腕と誠意の見せ所ということになります(ずるいことも含めて)。
 子どもたちの個性・独創性・独自性を大切にしようとすれば(誠意)、時間は果てしなくかかります。そうではなく、担任がある程度線路を敷いてやる、聞こえのいい言葉で言えば「お手伝いしてやる」(腕)ことにすれば、時間はかなり短縮できますが、腕を振るえば振るうほど作文は「その子のもの」ではなくなっていく。

 現実問題として最終的には同じ文集の中に「児童生徒100%」の純粋な作文もあれば「児童生徒40%、担任60%」のブレンド作文も同時に存在することになります。最後のひとりの「40%の『その子』」を残すために、担任は大変な苦労をしているわけです。
 しかしそれでも40%は残せたことに担任は満足しなくてはなりません。やりかたによっては10:90の作文だってよかったわけです。「数十年後はどうせ覚えていないだろう」とうそぶくことだってできたわけですから。


【作文指導がなくなるわけではない】
 もちろん学校文集がなくなっても作文指導がなくなるわけではありません。
 国語の授業には「作文」の単元があるのでその時間内に指導しますが、これはいわば自動車運転の教習所内講習みたいなもので、たくさんの枠を与え(例えば“主題をそろえる”とか“起承転結といった形式をそろえる”とか“書き出しを同じにする”“接続詞に注目させる”など)、その内部だけで試行するもので、「さあ自由に書きましょう」(路上講習)というわけにはいきません。あくまでも「基礎の基礎を学ぶ」範囲にとどまります。
 問題は「それで作文力がつくか」ということです。

 私は反語的に「つかない」と言いたいのではありません。よく分からないのです。
 教育の最終的な部分は常にそうです。今行っている指導でほんとうに力はつくのか、その力は将来役に立つのか、そもそも生きて行く上で作文力は必要なのかといったことは、厳密には証明できないのです。


【週2時間の外国語学習で英語は身につくのか】
 同じ論理をつかえば、オバちゃんの孫の学校で学校文集を破壊してしまった小学校英語(正確に言えば「外国語」)、現在の予定では週2時間相当ですが、この程度の学習で英語力はつくのか――それも未知数です。

 よく、
「中高あわせて6年間も勉強しながら、日常会話ひとつできない日本の英語教育は間違っている」
といった言い方をしますが、下手をすれば「小学校3年生から10年間も勉強しながら日常会話もできない――」といったことにもなりかねません(たぶんなります)。
 実際問題として私たちが今、一念発起して英会話を身に着けようとしたら、週2時間の学習でなんとかなるとはだれも考えないでしょう。

 そもそもこの国に暮らしている限り、英語なんてできなくても少しも困りません。英語の映画も書籍も、片っ端吹替ないしは翻訳されたものが出てきます。1億2600万人も人口があると相当に難解な作品・書籍であっても十分採算が取れるからです。
 海外旅行に行くにしても、必要最低限の会話は翻訳ソフトで事足ります。
 私は最近ハマっているVoiceTraは31言語に対応し、そのうちの16言語はスマートフォンに話しかけるだけでその場で外国語に翻訳・音声出力してくれます。こうした翻訳ソフトは2020年に向けてとんでもなく進化していくはずです。

 こんな国ではどんなに英語を学んだところで、それなりの就職をしないとみんな忘れてしまいます。かつて勉強したはずの微分・積分、摩擦係数やら化学式やらが全部忘れ去られたように、英語だけが使わなくても知識として残るなどありえないのです。

 話を元に戻して、
 それでもなお、外国語のために学校文集のようなねちっこい作文学習は捨てられるべきだったか――。


【最後に残る問題】
 最後に残るのは「保護者の経費負担削減」の問題です。
 そこでオバちゃんに聞きます。
「学校文集って、それ、いくらかかるの?」
 電話の向こうでオバちゃんが大声でお嫁さんに尋ねる声が聞こえ、それから私に返事があります。
「700円だって」
「そうだよね、高いよね。先生たちも毎年買って、少しでも単価を下げようとしてるんだけどどうしてもそうなる。
 一軒で小学生が二人いれば“二冊分1400円お支払いください”と言って保護者に激怒される学校もあれば逆に、“一家に何人にいても700円でいいですよ”と言って他の家から“人数で割れば単価も下がるのに、なんであの家の兄弟分まで私たちが払わなければならないの”と怒られる例もある。
 いずれにしろ“無償”である義務教育に一銭も払いたくないという人はたくさんいるし、実際に貧しくて1円の出費も惜しいという家だってある。子どもの貧困って聞いたことあるよね」

 学校を批判する仕事をする人は世の中にいくらでもいるので、一応学校側に立ってなだめるつもりで話しましたが、話している私自身、最後まですっきりしない話ではありました。オバちゃんに対する答えになったとも思いません。

以上、「答えのない問い」に対する「答えにならない答え」でした。
 

追記
 いま突然気づいたのですが、小学校英語をはじめ、思いつくありったけの負担を被せてから「これ以上教師の負担を増やすな」と教師の働き方改革を言い出すって、定価を上げてから大幅値引きする詐欺商法と一緒じゃないか!

 ホントに汚ねーな!!






 
2

2018/1/9

「犬の話」〜3学期初日の話のネタに 2  歴史・歳時・記念日


 いよいよ新学期。
 書初めやら給食袋やら、山ほどの荷物を抱え、寒い朝を元気に登校してくる子どもたちの様子が目に浮かぶようです。
 この子たちは荷物以外に、いったい何を抱えて学校に向かうのでしょう?
 新学期といってもほとんどの教師にとっては何回も経験した学校再開の一齣にすぎません。しかし子どもの中には本気で気持ちを改めて来る子がいます。ましてや新年新学期です。

 実は蓋を開けたら去年のその子と全く同じ、ということもあるかもしれませんが(普通はそう)、とりあえず“新しい気持ちでくる子”として遇してやりたいものです。その“新しい気持ち”はたいていの場合、“良きもの”なのですから。

 ところで今月3日に私の年賀状を紹介しましたが、実は毎年数種類の賀状をつくって相手に合わせ使い分けています。例えば私の個人的なつき合いとか、家族の様子を知らせたい相手とか、かつての教え子とか――。

 特に現場の教員だった昔は、大人用のものをクラスの子どもに渡すわけにはいきませんので、小中学生向きのものを別に作り、それを送りました。たいていはその年の干支にかかわる豆知識を、びっしり書き込んだものです。
 今や教え子たちも大人になってそうしたことも必要なくなりましたが、こういったことも懐かしく楽しい思い出です。
 調べたら、ちょうど12年前のものが残っていたのでここに載せておきます。

クリックすると元のサイズで表示します


 さて年賀はがきの文中に「どういう意味か調べてみるといいですね」と書いてあるので、12年後の今の私が、それに応えて少し調べてみました。
「犬も歩けば棒に当たる」なんて、分かっていながらうまく説明できないものですから、やはりきちんと調べておくべきでしょう。
 

【基本的なことわざ】
・犬も歩けば棒に当たる(いぬもあるけば ぼうにあたる)
 でしゃばると思わぬ災難にあうと、じっとしていないで何でもいいからやってみれば思わぬ幸運にあう、どちらの意味にも使えるようです。

・夫婦喧嘩は犬も食わない(ふうふげんかは いぬもくわない)
 夫婦喧嘩というものは、つまらない原因だったり一時的なものだったりするから、他人が間に入って仲裁したり心配するものではない。

・犬が西向きゃ尾は東(いぬがにしむきゃ おはひがし)
 当たり前すぎるほど当たり前であること。

・犬に論語(いぬにろんご)
 道理の通じない者には何を言ってもむだ。

 なるほど、言われてみればそうだ。


【チャンス】
 犬=猟犬という発想から“チャンス”との関連でできたことわざもたくさんあるようです。

・犬一代に狸一匹 (いぬいちだいに たぬきいっぴき)
 よいチャンスにはなかなか出会えない。 犬の一生に狸のような大きな獲物をとるのは一度くらいだ。
・犬骨折って鷹の餌食 (いぬほねおって たかのえじき)
 犬が苦労して追い出した獲物を鷹に取られる。 苦労して手に入れかけたものを他人に奪われてしまうたとえ。鳶に油揚げをさらわれる。
・犬兎の争い (けんとのあらそい)
 両者が争って弱り、第三者に利益をとられること。 犬が兎を追いかけ、山を上ったりしているうちにどちらも疲れて死んだのを、 農夫が自分のものにしたという寓話から。


【従順】
「犬は三日の恩を三年忘れず」というように、犬は従順で、人間の友もしくは優秀な家来として認識されることも多かったようです。その点で調教の効く馬や鷹と同一視されます。

・犬も朋輩鷹も朋輩 (いぬもほうばい たかもほうばい)
 同じ主人に仕える以上、身分に違いはあっても仲良くしていく義務があるということ。 会社の同僚などについていう。
・犬馬の心 (けんばのこころ)
 主君や親のために尽くす忠誠心。
・犬馬の労 (けんばのろう)
 主君または他人のために力を尽くして奔走すること。 他人に対して自分の労苦をへりくだって言う言葉。「社長のためなら犬馬の労を惜しまない」等。


【忠誠心を見せない犬は可愛くない】
 したがって忠誠心を見せない犬は可愛くない。自分になつかない犬もいけ好かない。

・吠ゆる犬は打たるる(ほゆるいぬは うたるる)
 じゃれつく犬は打たれないが、吠えつく犬は打たれる。つまり人間でも、慕ってくる者は可愛がられるが、手向かう者は憎まれる。
・尾を振る犬は叩かれず(おをふるいぬは たたかれず)
 従順な人は、誰からもひどい仕打ちを受けることはない。
・杖の下に回る犬は打てぬ (つえのしたにまわるいぬは うてぬ )
 懐いていてすがってくるものには、むごい仕打ちはできない。

・捨て犬に握り飯 (すていぬに にぎりめし)
 骨を折るだけで無駄。 握り飯を捨て犬にやっても、ただ急いで食べて逃げて行ってしまうだけである。
・殿の犬には喰われ損 (とののいぬには くわれぞん)
 勢いの強い者やったことは、たとえ道理にはずれていることであっても泣き寝入りするしかない。

 そうかとおもうと、こういうこともあります。
・飼い犬に手を噛まれる(かいいぬにてをかまれる)
 日頃からかわいがり面倒をみてきた者からひどく裏切られたり、害を受けたりすること。

 だったら人間だって容赦しない
・狡兎死して走狗烹らる(こうとしして そうくにらる)
 すばしこいうさぎが死ねば猟犬は不要になって煮て食われる。これを人間に当てはめると「敵国が滅びると、軍事に尽くした功臣はかえってじゃまになり、殺される」。
 すごいな。

 また、従順さが表面だけという場合だってあります。
・犬馬の養い ( けんばのやしない )
 犬や牛馬に食物を与えて養うのと同じように、親を養うのにただ口腹を満たすだけで敬愛の念のないことをいう。


【犬死、つまらぬ者】
「犬死」という言葉があるように、犬にはつまらないもの、粗悪なもの、怒ると見境なくなってしまうもの、という意味もあるようです。

・羊頭狗肉(ようとうくにく)
 羊肉の看板を掲げながら、実は犬の肉を売っている。見かけと実質がともなわないこと。立派なものをおとりに実は粗悪なものを売ること。
・喪家の狗(そうかのいぬ)
 飼い主に見捨てられた犬。またはそのようにやせ衰えて元気のない人。

・飢えたる犬は棒を恐れず (うえたるいぬは ぼうをおそれず)
 飢えている犬は人に叩かれることも恐れないで食物に近づくように、 人間も食うためには法をおかすようなこともある。
・噛み合う犬は呼び難し(かみあういぬは よびがたし)
 夢中で噛み合って喧嘩している犬はいくら呼んでも来ない。自分のことで夢中になっている人は、何を言われても耳に入らないものだ。

・負け犬の遠吠え(まけいぬのとおぼえ)
 臆病者が陰で威張ったり悪口を言ったりすること。
・所で吠える犬はない (ところでほえる いぬはない)
・わが門で吠えぬ犬なし (わがかどで ほえぬいぬなし)

 どんな意気地のない者でも自分の縄張りでは強そうに振る舞う

・食うだけなら犬でも食う (くうだけならいぬでもくう)
 ただ食って生きているだけなら犬にだってできる。それでは人間としての価値がない。

 ここまで言われると犬も散々です。

 しかしそのろくでもない犬の糞となると、これはもうほんとうにどうしようもない。
・闇がりの犬の糞 (くらがりの いぬのくそ)
 闇がりでは犬の糞は見えないことから、人の気付かない失敗は知らんふりをする、という意味。
 どういう使いかたをするのでしょう?
・犬の糞で敵を討つ (いぬのふんでてきをうつ)
 卑劣な手段で仕返しをすることをいう。
 考えてみもしなかった――。


【使える】
 さて、今回調べた中には、今まで聞いたこともないことわざがたくさんあり、その中には覚えておくといつか使えそうなものも多くありました。

・兎を見て犬を放つ (うさぎをみて いぬをはなつ)
 ウサギを見つけてから犬を放して追わせても遅くはない。 失敗してから気がついてやり直しても、決して遅すぎることはない。
・一犬虚に吠え万犬これに和す (いっけんきょにほえ ばんけんこれにわす)
 一匹の犬が何かの影を見てほえると、あたりのたくさんの犬がその声につられてほえたてる。誰かがいい加減なことを言い出すと、多くの人がそれにつられて大騒ぎをする。
・垣堅くして犬入らず (かきかたくしていぬいらず)
 家庭内が正しく治まっていれば、それを乱すようなことは外から入ってこない。
 ――いいですねぇ。
・蜀犬日に吠ゆ (しょっけん ひにほゆ) 
 見識の狭い人が賢人のすぐれた言行を怪しみ、疑って非難するたとえ。 蜀(しょく)の国は雨が多いので日を見ることが少なく、たまに太陽を見ると犬が怪しんで吠えたという。

・煩悩の犬は追えども去らず(ぼんのうのいぬは おえどもさらず)
 いくら追い払っても、人の煩悩はつきまとって離れないものである。あ、これよく分かる。


【最後に】
 私にぴったりの「犬」にまつわることわざ。

・犬馬の歯 (けんばのよわい)
 犬や馬のようにむだな年齢を重ねた。自分の年齢をへりくだっていう語。



1



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ