2017/9/24

「更新しました」  教育・学校・教師


「キース・アウト」


2017.09.24
中3「教科書理解できない」25%…読解力不足


 妙な研究で、中学生の学力が低いように印象づけるのはやめていただきたい。
 メディアは研究の価値をしっかり(多少でもいいけど)検証すべきだ。
   
 *携帯ではリンクがうまくつながらない場合があります。
  リンク先の下の方まで探してみてください。






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2017/9/22

「腹をくくった二人の男とくくれないひとりの女、パンダと二つのレストランでア・ム・ロ!」  社会


     〜今週のできごと
 
 今週も一週間、さまざまなことがありました。
 いろいろ書き記したいことがあるのですが、順に追って来週回しにすると記事の新鮮さも私の意欲も失われそうなので、短く、メモ程度に、気になったことを全部書いておきたいと思います。


【トランプは腹をくくっている】
 水曜日のNHK「ニュースウォッチ9」は、国連におけるトランプ米大統領の演説がトップ、しかも20分以上使ってたっぷり解説していました。それに対してテレビ朝日の「報道ステーション」では3番目か4番目の扱い、しかも「横田めぐみさんについて言及してもらい、ほんとうにありがたかった」という部分のみを3分程度で報じただけでした。
 視点が違うとかくも扱いが変わるのかと、びっくりしました。私はNHKの勝ちだと思います。

 ポイントはふたつ。
 ひとつはトランプが「ロケットマン」などとからかって北朝鮮をボロクソに言ったこと(原稿段階で「金正恩」等おだたかな表現だったのを、トランプが「ロケットマン」にこだわって無理に入れさせた)、もうひとつは人権問題という全く彼らしくないことを語った点です(お前の口が言うのか?)。
 横田めぐみさんのことも、そうした流れの中で語られたことで、意識不明のままアメリカに戻されて亡くなったオットー・ワームビア氏の件、クアラルンプール国際空港で暗殺された金長男の件と並んで出てきたものなのです。

 トランプは北朝鮮の人権問題についても噛みついた――つまり問題は核・ミサイルだけじゃない、人権も含むのだとハードルを上げたわけです。核やミサイルを放棄するだけではダメだ、アメリカは妥協しない、人権問題もテーマだということです。

 けんか腰で北朝鮮の首根っこを掴んで、壁に押し付けたわけです。


【安倍首相も腹をくくっている】
 これと呼応するように昨日の安倍首相の演説も、持ち時間のほとんどを北朝鮮問題に費やし「必要なのは対話ではない。圧力だ」と主張しました。
 この「必要なのは対話ではない。圧力だ」は安倍首相がこのところ繰り返し訴えていることで、要するに日本政府の最大の懸念は問題が対話に持ち込まれ、朝鮮半島に金政権と“核ミサイル”が残ることだ、それだけは認められない、今のまま妥協されては困る、ということなのです。

 しかし出口を示さずに圧力だけを加えるのはケンカを売っているも同じですよね。そしておそらく実際にケンカを売っているのです。それでかまわないと思っています。

 出口を設けずに圧力を加えた場合の、最善の未来は内部崩壊です。制裁と脅しに耐え切れなくなった北朝鮮の一部が、すべてを金一族の責任に被せて地下に葬り去ります。

 次善の未来は“暴発”。
 ソウルや在韓・在日米軍に一発でも砲弾・ミサイルが発射されたらその瞬間に迎撃・破壊し、次の瞬間に北朝鮮の通信網を一発で遮断します。それが電磁パルス攻撃かシステムのハッキングか、はたまたすでに送り込んだ「戦闘命令とともに自己破壊するコンピュータ・ウィルス」かはわかりませんが、北朝鮮の頭脳と身体を切り離す斬首作戦の決行です。この場合、北朝鮮は打っても一発だけです。

 ソウルを危険に晒さぬ軍事手段があるとマティス米国防長官が言っています。信じましょう。
 そう言えば夏休みにアメリカに里帰りした在韓米軍の家族が、かなりの数、韓国に戻っていません。12月にはクリスマス休暇がありますが、その後どれくらいの家族が戻ってくるか、注目点です。


【「このハゲーッ!」の帰趨】
 やはり豊田真由子議員というのは不思議な人です。
 総選挙が近いということで慌ただしく病院を出て支持者の前に頭を下げましたが、この状況での再選、いやそもそも立候補する可能性があると本気で考えておられるのでしょうか?

 確かに豊田議員を送り出せば地元のため、それこそ身を粉にして東奔西走、死に物狂いで働いてくれるでしょう。しかしだからと言って「己の利益のために悪名高い豊田真由子を国会議員に選び直した」という汚名を、埼玉四区の有権者が被ってくれるはずがありません。ほかの選挙区だって同じです。なぜそれがわからないのか。
「恥をさらして生きていくことが、償いにも責任を取ることにもつながる」
とおっしゃいましたが、普通の生活人として生きてくことすらシンドイ状況だということ、誰かが教えてやらなければいけません(言っても分からないともうけど)。


【パンダの赤ちゃん生後100日】
 体長65p、体重6kgだそうです。ちょっと大きめの人間の赤ちゃんと同じです。
 同じと言えばまだ歩けないという点も同じで、匍匐前進みたいに這いつくばって進んでいます。可愛いですねぇ。
――と、しかしそこでふと思ったのですが、この子パンダ、野生動物としてはいかがなものでしょう?
 生後三か月で歩けない生き物なんて、人間とパンダを除けば何がいるのか、ちょっと思いつきません。シカとかウマとかは生まれて間もなく立って歩いたように思うのですが――。

 それにして生まれたときはわずか150gの超未熟児、おっぱいが終わると笹しか食べない超偏食、外見は白と黒の大きな斑模様で目立つことこの上ない。角があるわけでも鋭い牙があるでもなく、攻撃力も防御力もまるで感じられない。昼間っからグースカ眠っていたりする――。

 適者生存を原則とする自然淘汰説は、一面で弱肉強食の意味も含みますが、パンダと人間についてはうまく当てはまらないみたいです。
 人間は弱さを武器とした(私はそう考えます)、しかしパンダはなぜ生き延びたのか? 謎です。


【二つのレストラン】
 今週ニュースになった二つのレストラン。
 ひとつは「注文をまちがえる料理店」。
 私はNHKのニュースで見たのですが、要領よくまとまったYahooニュースがあったのでリンクを張っておきます(話題の「注文をまちがえる料理店」一般公開!笑顔あふれる空間を支える仕組みとは)。
 ウェイター・ウェイトレス全員が認知症という期間限定のレストランで、お皿からベロを出したロゴの可愛いお店です。
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 よく見たら「る」がコケてますね。
「注文したものがその通り出てきて、ホッとするやらガッカリするやら」
というお客さんの反応も面白かった。

 もうひとつは「ただ飯食堂」。
 正しくは「未来食堂」という名で、東京の神保町にある普通の(普通よりおいしい?)レストランです。
 それがなぜ「ただ飯」なのかというと、50分間、店のお手伝いをすると900円のランチメニューがただで食べられるのです。
 これもNHKニュースで見たものですが、同じくよくまとめられたサイトがありましたのでリンクしておきます(50分働けば一食タダ!まかないが食べられる神保町「未来食堂」)。もっとも2年前の記事なので、少し様子は違っているかもしれません。

 手伝いに来る人は千差万別。ほんとうにごはんが食べたい人もいれば経営のノウハウを学ぶつもりで来ている人、参加したいだけの気持ちでやってくる人など様々です。したがって別にランチメニューはいらないやという人もいて、その人たちは「お食事券」の形で権利を譲れるようになっています。券を店の入り口に貼っておくのです。誰が使ってもいいのです。そうやって気持ちがリレーするのがうれしいみたいです。
 私も一度足を運んでみたいですね。

「未来食堂」のサイトがありましたのでそれも貼っておきます(「未来食堂」)。


【安室奈美恵引退!】

 おじさんに言えることは一言。

「え!? 安室って、今でもスーパースターだったの!?」

以上。


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2017/9/21

「美しさをに気づく目」  芸術

    〜私が果たせなかったこと

 ジュゼッペ・アルチンボルドの生きた時代(1526年―1593年)は日本で言えば戦国時代の真っ盛り、織田信長はジュゼッペの7歳ほど年下に当たりますし、その没年である1593年は文禄の役(第一回朝鮮出兵)の終わった年です。
 そう考えるとヨーロッパに“人権”のカケラもなく、人を人とも思わない風潮で満たされていたとしても仕方がないことです。日本もその頃は、歴史上もっとも人間が大切にされなかった時代でした。

 しかし2017年9月17日の私は、アルチンボルドの生きた時代のヨーロッパ世界にすっかりウンザリして、西洋美術館の企画展をあとにするしかありませんでした。そして、何をしたのかというと、常設展を見に行ったのです。
 正確に言えば国立西洋美術館の建物本体を見に行った――世界遺産に登録されてから初めての入館だったからです。

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【国立西洋美術館】

 国立西洋美術館は実業家松方幸次郎の収集した19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻(松方コレクション)を中心として、1959年(昭和34年)に設立された美術館です。
 本館の設計はモダニズム建築の巨匠ル・コルビュジエが担当し、弟子である三人の日本人が協力して完成したのだそうです。
 さらに開館20周年の1979年には本館背後に地上2階・地下2階の新館がつくられ、1997年には本館前庭の地下に企画展示室がオープンして、以後「アルチンボルド展」のような特別展はここで行われるようになりました。

 本館自体の芸術的価値としては、1998年に旧建設省による公共建築百選に選定され、2003年にはDOCOMOMO JAPAN(近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織の日本支部)「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選定。2007年には国の重要文化財にも指定されています。
 そして昨年2016年5月、他の7か国17施設とともに「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献」として世界文化遺産に登録されたのです。


【私がこれまで、あまり常設展に行かなかった理由】
 来月新宿にオープンする草間彌生美術館にような個人美術館はいいのですが、普通の美術館の常設展というのは、どこに行っても苦手です。

 彫刻と絵画と工芸、日本画と西洋画、さまざまな時代のさまざまな作家――そうした多様なものを同時に見せられると、ひとつひとつの価値が分からなくなってしまうのです(ですから「エルミタージュ美術館展」とか「プラハ美術館展」とかいったのもダメです)。
 そうではなく、「ピカソ展」だとか「ゴーギャン展」だとか「草間彌生展」だとか、要するに個人の作品をゲップの出るほど見せられると、それでようやく価値がわかる――というかわかった気になるのです。

 わざわざ東京の国立西洋美術館まで来ながら、常設展まで見て行こうという気になれないのはそういった事情があります。しかしこの美術館の場合、さらに足が遠のくもうひとつの理由がありました。それは「順路が分からない」ということです。

 とりあえずホールのようなところから二階に上がって、最初の一歩を踏み出したところから、右に行ったらいいのか左に行くのか、それがわからない。
 意を決して右回りに歩き始めるのですが、長い回廊みたいな構造になっている展覧会場の、左の壁と右の壁の絵をどういう順番で見ればいいのかわからない。
 もうそれだけで面倒です。
 そもそもそういうことを考えている時点で私はダメなのかもしれません。


【しかしそれにしても今回はよかった】
 しかし今回は建物内部を見るのが目的ですので、作品の見落としなど気にせずに進めます。絵画ではなく、天井や壁、階段の位置や明り取りの様子を見ながら回るのです。
 そうやって見ていくと、確かに国立西洋美術館本館内部は美しい。

 光と影、白と黒、低すぎる天井やパルテノンを思わせる高い柱。
 自然光は高い位置からも人間のすぐ頭の上あたりからも、さまざまに入り込んで来ます。
 太い梁や妙な位置から立ち上がる階段。
 そのいちいちが強いコントラストをつくって印象深いのです。

 一級の美術品の美しさを、文章にするのに私の筆力はあまりにも拙いので写真数枚を貼るにとどめますが、その幽玄な雰囲気を味わうためだけにでも国立西洋美術館に足を運ぶことには意味があるのだと思いました。

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 たまたまその日館内でやっていた「[Fun with Collection 2017]〜ル・コルビュジエの芸術空間―国立西洋美術館の図面からたどる思考の軌跡」に、ル・コルビュジエのアイデア・スケッチや初期の建築模型が数多く飾られていたことも、ずいぶんと助けになりました。

【しかしそれにしても――こだわり】
 しかしそれにしても、苦手といっても国立西洋美術館の常設展には若いころから数えると10回近くは来ているはずです。その間、この建物に感じていたのは「めんどうくさい構造だな」といったものだけでした。
 世界遺産に登録されて初めて調べる気になり、調べたら分かり、実際に見たから感じられる――なぜそいう手続きをしないとダメなのでしょう。
 何の知識もなくこの本館を訪れて、壁にかかる絵画より先に建物の美しさに打たれ、しばし佇む――そんな人はおそらく毎年何千人もいたはずです。
 なのに私には分からない。

 私にはそういう悔しさがあります。そこにこだわりもあります。

 日本画の良さや陶磁器・工芸品といったものに心打たれるようになったのはここ十数年のことです(50歳を過ぎたころから)。それまではほとんどわからなかった。
 それなのに十代やそれ以前の若年で、尾形光琳に身を震わせ、葛飾北斎に驚嘆し、あるいは柿右衛門の壺に魅了され、能や狂言に心酔した、そういう人たちがたくさんいるのです。
 その人たちに比べたら、私の人生のなんと貧しかったことか――。

 美しいものを美しいと感じる力は一流のものに数多く触れることでのみ育ちます。子どもたちには限りなくたくさん、そうした経験を積ませたいものです。


(追記)
 今回、久しぶりに国立西洋美術館常設展に行って、驚くほどたくさんの人がバチバチ写真を撮っているのに気づきました。
 係の方に聞くと、表示(撮影禁止)のない作品については自由に撮影してかまわないということ、日本の美術館にしては珍しいことですが、おかげでたくさんの写真が撮影できてその点でも楽しい絵画(建築)鑑賞になりました。




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2017/9/20

「アルチンボルドの不快」  教育・学校・教師

     〜障害者をもてあそぶ世界

 9月17日(日)、台風の近づく雨の中、国立西洋美術館の「アルチンボルド展」に行ってきました。

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 それまでアルチンボルドについてはほとんど興味がなく、展覧会のポスターを見ても「ああ、こういう絵を描く人いたな」程度の知識しかなかったのですが、たまたま東京に行く用事があり、展覧会自体もあと一週間で終了ということなので思い切って出かけたのです。行って損な展覧会というものもそうはありません。
すすく

【アルチンボルド】
 ジュゼッペ・アルチンボルド(1526年―1593年)はイタリア・ミラノ出身の宮廷画家で、多く宗教画や室内装飾を手掛けた人ですがそのほとんどは忘れ去られ、主に精密画のように丁寧に描かれた果物や野菜、食材、動植物の集合体として描く肖像画で名を残しています。

 今回の展覧会はアルチンボルドの代表作《四季》(春・夏・秋・冬)および《四大元素》(水・火・大地・大気)の8作品を中心として、その他の油絵・素描30点余り、さらに同時代の画家や彫刻家の作品100点余りを配して時代を重層的に表現しようとするものでした。

 あと一週間、三連休の中日、雨で屋外のイベントには参加しにくい、ということでそうとう警戒して行ったのですが、会場は思ったほどは混んでおらず、ただ入場口前の「自分の顔をアルチンボルド風にして写真が撮れるCGコーナー」みたいなところだけが大盛況でした。
 私も少し興味あったのですが、40分待って“この顔に野菜や果物の盛り付けられた写真”を撮って帰ってもだれも喜んでくれそうにないので早々に諦め、さっさと会場に入りました。


【「法律家」の重苦しい衝撃】
 代表作《四季》《四大元素》については「フム、フム、フム」程度の感想しかなかったのですが、「法律家」と題された一枚の前では強い衝撃を受けました。それは重く暗い静かな衝撃です。

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 スイミング・キャップのようなぴったりした黒い帽子を被った老人の顔は、羽をむしった鶏やヒナ・魚などによって構成され、胸や胴は書類や本で作られている、その意味では他と同工異曲のアルチンボルドらしい作品なのですが、それを鑑賞しながらヘッドフォンの音声ガイドに聞き入る私の耳に入ってきた情報は、一気に気持ちを暗くするものでした。

 それによると、“驚くほど本人に似ている”と皇帝や宮廷の人々から誉めそやされたこの作品のモデルは、当時ウィーン宮廷の財政を取り仕切っていたヨハン・ウルリッヒ・ツァシウスという法学者で、彼は生まれつき顔にコブがあるうえ事故によってできた大きな傷もあったというのです。
 もともと障害のある顔を裸の鶏や魚によって表現し、あからさまに馬鹿にしながら欠点をあげつらって皆で喜ぶ――。


【多毛のアッリーゴ、狂ったピエトロと小さなアモン】
 さらに進むと、今度は《多毛のアッリーゴ、狂ったピエトロと小さなアモン》という作品に出会います。

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 これは当時、ウィーン宮廷に“収集品”として集められた障害者を描いたもので、多毛症のアッリーゴ(エンリコ・ゴンザレス)と小人症のアモン、右端のピエトロは精神障害なのでしょうか、彼らは足元にいるサルやイヌ、インコと同じ扱いで宮廷に集められ、貴族の家々を巡回させられた人々なのです。
 アッリーゴの家族については会場の別の場所でも紹介があって、カナリア諸島から連れてこられた多毛症のペドロ・ゴンザレスという男がウィーンで結婚し、生まれた子どものひとりがアッリーゴらしいのです。子どもたちは全員、父親の形質を継いでいたようです。


【今の時代を大切にしなくてはいけない】
 顔に障害のある老人を茶化したり、多毛症や小人症の人々を一か所の集めて鳥獣と一緒に描く――それ必ずしもアルチンボルドの好みではなかったのかもしれません。恐らくそうでしょう。
 彼はたぶん芸術家というよりは絵画職人で、それも施主の注文に非常によく応える優秀な職人であったはずです(ただしもちろん、悪趣味に抵抗せず積極的に加担したという罪はありますが)。
 果物や花でつくる肖像画とか逆さ絵(逆さにすると違うものが見えてくるだまし絵)とか、あるいは障害者というもの好んで弄ぶ風は、画家が使えたフェルディナント1世を始めとする三代の皇帝のもので、同時にそれは16世紀オーストリア宮廷の、何の屈託もない、当たり前の雰囲気だったのでしょう。
 やりきれない、ウンザリとする風景です。

 私は学校現場にいるとき、過度の人権尊重(子どもに小指の先ほどの苦労もさせてはいけない、そのうえで確かな学力をつけろといった類のこと)にウンザリすることがしばしばありました。
 しかしそれでもなお、人権の尊重される世界を守り維持しなければならないと思うのは、こうした事物に出会うときです。


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2017/9/19

「金正恩を子どもたちにどう教えるか」  教育・学校・教師

   〜子どもたちに伝える三つのこと

 最近ネット上で拾ったブラック・ジョーク
 二人の人間が砂漠を歩いている。一人は水筒を持っていて、もう一人は拳銃を持っている。拳銃を持っている人間は、もう一人を撃ち殺して水筒を奪おうか、あるいは脅して奪おうか考えている。ところが水筒を持っている人間は「水を1杯やれば大丈夫だろう」と思っている。どちらが韓国か北朝鮮か、みんな分かるだろう。(2017.09.16 朝鮮日報日本語版【コラム】全く、国とは言えない)

 さてこのジョークが紹介された前日の15日、東京新聞に次のような記事が載りました。
「ミサイル」に戸惑う子どもたち 「こえーな」 「私もママも死ぬかも」 「北朝鮮をやっつけろ」毎日新聞2017年9月15日 東京夕刊

 暴力ではなく、話し合いなさい。子どもに対してこう諭したことがある人は多いのではないか。だが、北朝鮮は15日午前にも、弾道ミサイルを発射。度重なる挑発行動が、教育現場にも影を落としている。「危機」が叫ばれる今、私たちは、子どもたちとどう向き合っていけばいいのだろうか。
(中略)
 ある教師は「北朝鮮からミサイルが飛んできたら真っ先に頑丈な建物の中に隠れるんだ。公園の木の下じゃ駄目だよ。ミサイルは木を貫通して落ちてくるからね」と教えた。だが、男児の自宅から学校までの通学路は住宅街や公園ばかりで、強烈な爆風などから身を守れそうな建物はほとんどない。同級生たちは「隠れるところねーじゃん。一体どうしたらいいんだよ」「こえーな!」と声を上げた。この日の下校時は、みんなで空ばかり見ていたという。
(中略)
 戦争が起きるかもしれない、という恐怖心は既に子どもの心に忍び込んでいる。北朝鮮が弾道ミサイルを発射した今春、首都圏に住む女子児童(8)は学校でミサイルへの対応が記された手紙を教師からもらった。「戦争になったらどうしようと思ったら泣いてしまった」と、その時のことを打ち明けた。北朝鮮関連のニュースは怖くて見られなかった。「戦争になれば私もママも死んでしまうかもしれないから……」。しばらく教師や友人たちに不安な気持ちを明かせないでいた。
(中略)
 教育現場では、教師たちも「どう伝えるべきなのか」と悩み続けている。ミサイルが発射された8月29日にJアラートが作動した地域にある中学校の女性教師(30)は「多くの生徒たちが『北朝鮮をやっつけろ!』『日本は何をやっているんだ!』と言っていました」と明かす。ただ、対応策は校内で協議しておらず、校長から「Jアラートが鳴ったら、とにかく情報を収集しろ」との指示を受けただけという。
(以下略)


 この記事は最終的に
 北朝鮮の問題も『どうしてこんな現状になったのか』『どうやったら武力衝突を防げるか』などについて、子どもたちと地道に考えていくしかないと思うのです。
 北朝鮮の「危機」がいつ収束するかは見通せない。それでもいたずらに「危機」をあおるのではなく、子どもたちに向けた「答え」を模索し続けるしかないのではないか。

といったところに収斂していくのですが、現実の学校に子どもたちと地道に考えていく時間的余裕はないし、特設でそうした時間を設けたとしても、世界中の誰もが「答え」を見出しかねている問題について教師に「こどもたちに向けた『答え』」を求めても困惑されるだけでしょう。

 しかしそうは言っても危機感を煽るだけで対応策を与えない指示や、怯える子や乱暴な言辞を弄ぶ子を放置する教育はないのであって、そこにはプロとして、当然与えるべき指示や指導があるはずです。
 情報はテレビやネットや口コミを通して無分別に流入してきます。それを統制し方向付けるのが私たちの仕事でしょう。


【子どもの言葉を額面通り受け取らない】
 ところで、子どもに限らず、私たちは常に良く考え吟味したうえで言葉を使うわけではありません。大した意味も配慮もなく、そもそも深い想いもないまま頭に浮かんだことを口にするのはよくあることです。
 ですから例えば、子どもが、
「先生なんか大嫌いだ!」
と言い出しても落ち込むことはありません。ましてや、
「オレだってお前のことなんか、でーきれーだ!」
と対抗するのは愚の骨頂です。

 同じように子どもが、
「隠れるところねーじゃん。一体どうしたらいいんだよ」「こえーな!」
と言っていても、それがどこまで続く感情なのか、しっかり吟味しておく必要があります。
「北朝鮮をやっつけろ!」「日本は何をやっているんだ!」
というのもさして深刻なものではないかもしれないからです。
「戦争になったらどうしようと思ったら泣いてしまった」「戦争になれば私もママも死んでしまうかもしれないから……」。
は少し考えてあげる必要はありますが、慌ててカウンセラーのところに連れて行くほどの問題でもないでしょう。

 大切なことは第一に、
「無暗に怯えさせるのではなく、正しく科学的な知識を与える」
ということ。二つ目は、
「年齢相応の指導をすること」
 そして三つめは、
「内と外を分ける」
ことです。


【正しく科学的な知識を与える】
「北朝鮮からミサイルが飛んできたら真っ先に頑丈な建物の中に隠れるんだ。公園の木の下じゃ駄目だよ。ミサイルは木を貫通して落ちてくるからね」
 これはもちろん間違った情報ではありません。しかしその前に与えるべき情報があります。
 それは単純に、「Jアラートは鳴っても、今のところ日本を狙って飛んでくるミサイルはない」ということです。

「今、ニュースを見たり大人の話を聞いていると、今にも私たちのところにミサイルが飛んでくるような気になるかもしれないけど、実はまだまだ戦争は始まらないし世界中が必死に戦争にならないよう頑張っている。だからおそらく戦争にはならないし、少なくとも日本にミサイルがバンバン飛んでくるような事態は避けられると思う。
 それでももし本当に危なくなったら、その時は先生たちが必死に君たちを守る方法を考えるから、その時まで安心して暮らしていればいい。

 もちろんその前に、日本の上空を飛んでいくミサイルが何かの故障でバラバラになって落ちてくるかもしれないって言っている人もいるけど、それを心配するなら毎日空を飛んでいる飛行機から部品が外れて落ちてくるとか飛行機そのものが落ちてくるとか、あるいは人工衛星が落ちてくるかもしれないとか、そういうことも恐れなくちゃいけないよね。
 実際にこれまだって部品が落ちるとか飛行機が墜落するということはあったけど、それにあたって死ぬといったことはほとんどない。それよりも道を走っている自動車や電車にぶつかって死んだり怪我をしたりする方が、何百倍も多いんだ。
 おそらく北朝鮮のミサイルよりそちらの方がずっと危険だ。だからミサイルのことは当分心配しなくていい」


【年齢相応の指導をする】
 小学校の1〜2年生までは確実に、そして3〜4年生までの多くは、とても素直で単純な世界に生きています。
 この年頃の子どもが「将来お医者さんになりたい」と言っても、「いや、お前の能力ではとても無理だ」とか「ウチにはお前を医学部にやるだけの財力がない」とかいって抑える必要は全くありません。一緒になって「そうだね、頑張ろうね」と言っておけばいい。現実世界の制約は、いつか自然に理解します。

 同じように、この年頃の子たちが、
「北朝鮮をやっつけろ!」「日本は何をやっているんだ!」
と言っていても深刻に考える必要もなければ、国際政治の綾や歴史的経緯について詳しく話し、理解を促したりする必要もありません。そもそも話したところで理解できません。

 ですからそういう子たちには、
「乱暴な言い方をしてはいけません」「政府の人たちも一生懸命やってるんだから、汚い言い方をするものではありません」
と諭しておけばいいのです。

 この年頃の子に教えるべきは原理原則、学ぶべきは基礎基本です。
 信号が赤だったら車が来ても来なくても、夜中でも、さらに故障中の赤でも、渡ってはいけない。人はいじめてはいけないし勉強はしなくてはいけない、学校は行かなくちゃいけないし、乱暴な言い方や人を責める言い方もしてはいけない――。
 それでかまいませんし、言い切って、子どもに引き取ってもらいます。「なぜ乱暴な言い方や人を責める言い方をしてはいけないか」といった本質的な話を始めると、必ず泥沼にはまります。

 ただし小学生も高学年以上、中学高校生となるとそうはいかないかもしれません。


【内と外を分ける】
 最初に出てきた新聞記事の文言、
 暴力ではなく、話し合いなさい。子どもに対してこう諭したことがある人は多いのではないか。だが、北朝鮮は15日午前にも、弾道ミサイルを発射。度重なる挑発行動が、教育現場にも影を落としている。
 このような矛盾が生まれるのは、学級内あるいは仲間内の問題と国際問題を同じ地平で考えるからで、それを切り離さない限り問題は解決しません。

「私はいつも、暴力はいけない、話し合いで解決しなさいと教えてきました。クラスの中で、友だちの間では、話し合で解決しないことはほとんどないからです。
 みんなでよく考え、話し合えば必ず解決策が見つかる、それが学校であり、友だちであり、そのために先生たちもいるようなものです。

 さらに大きな話をすれば、この日本にいる限り、正しいことは正しい、正義は必ず通ると、私は言い切ることができます。
 もちろん特殊詐欺みたいな人はいるし、殺人もあるし、悪いことをする人はいくらでもいますが、そういう人たちは必ず捕まる、罰を受ける――間違ってもノウノウと平和に、豊かに生き続けることなんてあり得ない、そう信じることができるのです。
 日本の中については、私が保証しましょう。

 しかし世界はどうでしょうか? 世界の方は怪しいですよね。

 もし世界中どこに行っても正義が通るとしたら、地球上に苦しんでいる子どもなんて一人もいなくなるはずでしょ?
 でもそうじゃない。今もシリアではたくさんの子どもが爆弾を落とされ、銃で撃たれ、食料ももらえず、家族を失っています。アラビア半島のイエメンという国では国内で様々な人たちが殺し合い、何が何だか分からなくなっています。当然子どもたちもひどい目にあっていますが、その様子も伝わってこないくらいにひどい状況なのです。
 最近ではまた、ミャンマーでロヒンギャと呼ばれる人々が住んでいた町を追われ、隣に国に逃げ込んだりしているという話も聞こえてきます。
 でもそれらは現在たまたま注目されているだけで、世界中で苦しむ子どもたちは何百万何千万といるのですよね。

 残念なことに、世界では正しいことが正しいと通じない、正義が正義として実現しないことも多いのです。
 国と国との関係もまさにそれで、互いに自分の国の利益を最優先に考えているので単純に話し合えばすべてがうまくいくというようにはなっていません。
 わがままな国があります、身勝手な国もあります、わがままや身勝手をしないと生き残れないと思っている国もあります。お互いに話し合って何とかしようという気持ちはあるのですが、武力を見せて脅さないと何ともならないと考える人々もいたりします。

 今、北朝鮮を中心とした東アジアで起こっていることは、そういうことで、それぞれの国や様々な人々の思惑がぶつかり合って、どこをどうしたら平和に全てを丸く収められるのか、まるで分らなくなっているのです。
 しかしそれでもなお、私は人々の善意を信じようと思います。

 今は武力をちらつかせたり、あるいは近い将来、実際に戦争のようなことが始まるにしても、きっといつか、どこかでお互いが納得できる答えを見つけ、平和な地域を作ろうとできるのではないかと思うのです。

 つらくシンドイ時代です。
 しかし大人たちは今、君たちの将来に永久につながる平和を求めて、必死に考え、必死に話し合い、必死に声を掛け合っています。いま私たちにできることはその様子を落ち着いて見つめ、慌てず、騒がず、歴史の進む方向を見極めることです。
 
 私も君たちとともにいます。
 いざとなれば私たちが君たちを守るために精一杯のことをします。
 だから安心して、今の事態と世界の行く末を見ていきましょう」
 

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2017/9/16

「更新しました」  教育・学校・教師

「キース・アウト」

2017.09.16
「タイムカードの導入なんて意味がない!」逆に管理強化、打刻できない土日…嘆く教員

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