2017/5/29

「昭和は遠く・・・」  社会

        〜年寄話と昔のこと

 先週の土曜日(5月27日)、古い仲間との飲み会がありました。高校時代の同級生を中心に、もう50年近く付き合っている仲間です。
 構成メンバーは11名。一か月おきに飲み会を開いてい、年に一回は小旅行をしたりしてきましたが、子どもが大きくなってしまったこともあって旅行の方は最近すっかりご無沙汰になっています。
 先週集まったのはそのうちの8人、ただし夫人をともなってきたのが二人いましたので総勢10人の会となりました。10人集まるのは(定例の忘年会)以外では珍しいことで、月によっては3人しか来ないといったこともあり、しかしその緩さのために長く続いている、といった感じもあります。


【年寄りの話はこうなる】
 飲みながらどんな話をしているのかというと、基本的には翌日ほとんどが思い出せないようなどうでもいいことで、先週の場合はアニキサスがどうのこうの、友人が罹った網膜剥離の手術がどうのこうの、高校時代の隣のクラスの男が大企業の社長になっていて驚いた、どうのこうの、といった他愛なく果てしない話です。
 そのうちひとりが、
「あれ? オレ、(高校)1年のとき何組だったっけ?」
と言い出し、別のひとりが、
「おい、おい、おーい。自分のクラスさえ危ういのにお前のクラスなんて覚えているわけないだろう」
という話になり、さらに別のひとりが、
「オレたちが一緒になった(2・3年生の)クラスは3組だったよな」
と言うと、
「バカ!! 2組じゃないか!」

 年寄りの記憶は遠いほど確かで近くが不安(昨日のことが思い出せない)といいますが、遠くは遠くなりに思い出しにくいものです。
 先ほどの「大企業の社長」にしても、話を持ち込んだ男が、
「ホラ、隣のクラスにいた○○、覚えていない?」
と言っても誰も返事をしない。誰も思い出せないのです。


【忘れ去られる昭和】

 記憶だけでなく、年月がたつと様々なものが忘れられます。
 先週の月曜日深夜(23時59分〜)日本テレビ「月曜から夜ふかし」では、『一昔前の常識を若者に教えてあげたい件』というコーナーがあり、そこで紹介されたのはまず、
@ 昔はグレープフルーツに○○をかけて食べた。
A 昔は麦茶に○○を入れて飲んだ。
 答えはもちろん“砂糖”。そして実際に食べたり飲んだりしてみると、みんな飛び上がって喜ぶのです。さらに“砂糖入り麦茶に牛乳を入れるとコーヒー牛乳のような味になる”という“昔の常識”は、若者を感動すらさせます。

B 117に電話をすると何が起こるか。
 117で時報を聞くというのは“時計は狂うもの”という前提があってのこと。現代の電波時計は狂うということがありません(常に修正されている)。スマホも同じです。
 私自身最近時報を聞いたのは、壁掛け式の古い時計や以前妻からロレックス(手巻き式)を借りていた時期に、時刻を合わせた時だけです。現代の若者が知るはずもありません。

C ハエ取り紙と缶切り
 ハエ取り紙は、アフリカあたりの発展途上国で今でも人気の商品だと聞きます。
 これが人気であるためには「相当数のハエのがブンブン飛び回っている」「開放式の店舗で殺虫剤等が使えない」等の条件が必要ですが、今の日本で条件がそろうことは確かに稀でしょう。
 缶切りも、プルタブタイプの缶詰が中心の今は忘れ去られるべきものです。もっとも缶切りで切った缶の切断面や蓋は非常に危険でしたから、なくなるのはむしろ歓迎すべきことでしょう。
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 番組で紹介された昭和の常識はその程度でしたが、こうした“時代に取り残されたもの”は探してみればいくらでも出てきそうです。それらは私たちにとっては言わば「ああ、そう言えば最近見ないな」程度の話で、決して「懐かしい」といった深いレベルのものではありません。しかし若者にとってはずいぶんレトロな話で、新鮮で、「ヘェ」な話で「トレビア」なのでしょうね。
 しかしそれは、どんな感じなのでしょう――?


【若者に昔のことを話して聞かせるということ】
 私たちが高校時代を過ごしたのは昭和40年代前半、先ほども言ったように今から反半世紀近くも前のことです。その頃の話をしたら、今の若者の耳にはどんなふうに届くのか――。

 そこでふと思いついたのは、
「自分自身が高校生時代、お年寄りから50年前の話を聞かされたらどんなふうに感じたろうか」
という想定です。
 その場合お爺さんが話しているのは“昭和40年代の50年前”つまり大正時代の話なのです。
 確かにこれではとんでもない大昔です。

 自分の年寄加減に、本気で怖気づくような話でした。


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2017/5/26

「タバコとがんの話」  社会

     〜楽観と悲観と懐疑の狭間で

 明日5月27日は、いわゆる「神戸連続児童殺傷事件」の三人目の被害者が、無残な遺体となって発見されて20年目にあたる日だそうです。
 この事件は少年法の問題や事件報道のあり方、目撃証言の信ぴょう性や専門家と称する人々のいい加減さなど、さまざまな点で勉強させられた、私にとってはとても思い出深いそして意義深い事件でした。

 おそらく当時教員をしていた人の中で、私はもっとも深く事件に関心を寄せ、リアルタイムで事件を追い、時には一緒に警察の誘導に引っかかって間違った方向に進んでしまった、そういう人間の一人です。なぜならそのころ、私は大都市のがんセンターで手術の準備をしながら、朝から晩までニュース番組を見ていたからです。メディアがどう間違ったもつぶさに見てきました。しかし今お話ししたいのはそれではありません。
「神戸事件」が20周年なら、私の病気も20周年ということです。20年もたてば再発を心配するより新しいがんのことを気にした方がいいでしょう。

【がん治療の現状】
 この20年の間に、がんに関わる環境は随分変わりました。
 感覚的にも統計的にもがんの罹患者や死亡者はやたら増えていますが、これは結核だとか脳血管疾患だとかで死ぬ人が少なくなり、しかもがんになりやすい高齢者の割合が増えたためで、統計を年齢調整するとガン死はむしろ少なくなっているのです。(下図)
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 私が手術を受けた病院でも、当時ステージ3Aの5年生存率(いちおう治ったと判断される割合)が25%、3Bが7%と言われたのが、今やそれぞれ40%、20%を越えるまでになっています。
 だからがんは「治らない病気」ではなくなっています。しかし「治る病気」になった訳でもありません。


【がん報道の気になるできごと】
 さて、歌舞伎役者の中村獅童さんが肺腺がんに罹り、来月手術を受けるという報道がありました(5月18日)。その中でいくつか気になったことがあったのでメモしておきます。

 ひとつはマスコミも混乱した「肺腺がんに罹った」という言い方です。
 多くの人がそうであるように、獅童さんもまたがん患者としては素人なのですね。ここは「肺がんが発見されました。がんの種類は肺腺がんです」という言い方をしておけば混乱も少なかったのです。普通、がんの部位(罹患した臓器や場所)は気にしても、がんの種類までは気にしませんからその程度で良かったのです。しかし「腺がん」と言ったことで余計な情報も入ってきます。

 それは「喫煙との関係はない」というものです。
 女性の比率が高いことからそんな誤解が生じたのかもしれませんが、冗談ではありません。たばこを吸う人は吸わない人 に比べて、男性では2.8倍、女性では2.0倍、肺腺がんになりやすいのです(国立がん研究センター資料)。
 もちろん同じ肺がんでも扁平上皮がんや小細胞がんだと男性で12.7倍、女性では 17.5倍ということですからその違いは歴然としていますが、「関係ない」というのは言い過ぎですし「関係が薄い」と言っても不正確です。

 もうひとつ首を傾げたのは、
「今見つかったのが奇跡的と言われる程の早期発見で、この状況ですぐに手術をすれば完治するとの担当医師からのお言葉」
という表現です。
 医者はどういうつもりでこんな言質を与えてしまったのか。

「超早期の肺腺がんはほぼ100%治る」と書いたものを読んだこともありますが、ほぼ100%と100%では意味が違います。
 飛行機は99.99%安全だと言われても、残りの0.01%に当たった人には何の慰めにもなりません。0.01だから小指の先だけ傷めるという話ではないからです。

 私が気にするのは、やはりがんで現在闘病中の小林麻央さんのことで、そうしたおいしい話に次々とつられ、状況を悪化させてしまったのではないかとそんな気がするからです。
 もちろん市川家のかかる医者ですから一流に「超」のつくような名医ばかりでしょうが、それでも間違うことはあるということと同時に、病気に関して楽観的な要素と悲観的な要素の両方が出てきたら、悲観的な方に準拠して対応すべきだというのが危機管理の常道だと思うのです。それがそうならなかったのは、よほど医者が甘かったのか――。

 がんという病気はステージ1の早期でも悪化し死ぬこともあれば、ステージ4でも完治することのあるミステリアスな病気なのです。
 悲観も楽観もしてはいけないはずです。


【さて屋内禁煙をどうするか】
 今、国会では「原則屋内禁煙」の厚労省案をめぐって与野党が侃々諤々の大議論を行っています。一方に副流煙の1mgも吸わせないといった強硬な禁煙論者がいて、他方には店ごとの分煙でいいじゃないかといった曖昧派がいて、さっぱり納まりの付く様子が見られません。
 健康の危機管理の原則からすれば、当然全面禁煙がいいに決まっているのですが、この問題に関しては素直になれない事情があります。10年以上前、この国で最も早く屋内禁煙、敷地内禁煙が実施されたのが学校だったからです。
「できることから始めよう」と「弱いところをまず叩こう」が混同される場合がままあります。

 今回の「原則屋内禁煙」も小さなスナックや居酒屋から始めるのではなく、もっと先にやるべきところがあるように思うのです。
 国会議事堂および議員会館敷地内、迎賓館、一流ホテル敷地内、コンサート会場・劇場内の楽屋・控え室、高級料亭・・・いずれも私たちには縁のない場所ですがね。

 何かスッキリしない結論ですが、私は自分がとんでもない目に遭い、タバコは百害あって一利なしと十分知っているのに、医療費抑制や受動喫煙反対が振りかざされて、無抵抗の喫煙者が追い詰められて行くのをみると、何か素直になれません。

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2017/5/25

「車が突然、目の前に降ってきた」  知識

     〜あれほど言ったのに自分がコリジョン・コース現象にはまる
 
 常々「注意しましょう」と申し上げているにもかかわらず、畑のど真ん中の丁字路で車にぶつかりそうになりました。
 後部座席左に座っていた89歳の母が
「止まって! 止まって! 止まって!」
と叫んだので慌ててブレーキを踏んだのと、相手の車の運転者(女性)の停止も間に合ったので事故にはなりませんでしたが間一髪のところでした。

 母は「見えなかった?」と聞き私は「見えなかった」と答えましたが、本当に見えなかった、天から車が降ってきたか、地から湧き出てきたか、いずれにしろ突然目の前に降って湧いて出てきたのです。
 何が起きたのか。


【そのとき何が起こったか】
 幸い私の車には車載カメラが乗っていたので、家に帰ってから改めて確認してみました。

@ この時点では相手の車は見えていません。
 風景としては右に野球場のフェンスがあったりその先にアパート群があったり、また、私は突き当りで右折するつもりでしたので、その点でも気持ちが右方向に重くかかっていたのかもしれません。
 実はその時、対象の車は左の農業用ハウスの陰にいたのです。
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A ハウスの陰から車が出てきました。
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B 1秒後、車はフロントガラスのほぼ同じ位置にいます。
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C さらに1秒後、車はむしろ左に下がります。
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D 車はフロントガラスの中で、さらに下がります。正面に一旦停止の標識があり、路面にも書いてあるのに、おそらく私は右方向に気を取られています。左には何の問題もないと思っているのです。
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E 車はさらに左に移動してピラーに近づきます。ただしもちろん近づいた分、車体は大きく見えるようになっています。
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F もうぶつかる直前ですが、私は気づきません。
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G 急ブレーキ!! 
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 センターラインを越えないところで停止しましたのでどっちみちぶつからなかったと思いますが、危機一髪でした。


【コリジョン・コース現象】
 このように、同じ交差点に直角方向のから、ほぼ同じ速度入ってくる車があると、それを見失ってしまう現象をコリジョン・コース現象というのだそうです。
 人間の目は“動いているものには反応しやすいが止まっているものは見落としやすい”という性質があり、上記の条件下では、一連の写真で見た通り、フロントガラスの中で車が止まってしまい見落としがちになるのです。

 これについては7年前に(2010/8/30)「コリジョン・コース現象」というタイトルで紹介し、つい先ごろ新しい知識とともに改めて記事にしました(2017/3/14)「激突!!」
 そして田舎道を走ることの多い私としては十分注意してきたはずのことです。

 今回それにもかかわらず事故直前までいってしまったのは、ひとつにはコリジョン・コース現象は十字路で起こるという思い込みがあって丁字路についてはまったく考えていなかったため。もうひとつは母の用事に付き合って慣れない道を通っていたいたことなどがあげられます。
 
 しかし実は、もうひとつ大きな要素があったのかもしれません。
 家に帰ったあと、母からこんな話があったのです。

「あの丁字路ね、私も昔そっくり同じ感じで飛び込んじゃって、車をぶつけちゃったことがあるのよ。それで運転をやめる気になったったんだけど、その時も軽トラが突然横に出てきた――」

 親子二代が30年近い年月を経て、同じ場所で同じようなことをやっていたのです。
 それは因縁などではなく、あの場所が特に事故を起こしやすい交差点だという証明なのかもしれません。そう言えば畑のど真ん中に一時停止の標識というのも贅沢です。コリジョン・コース現象を起こしやすい魔の丁字路なのかもしれませんね。

 皆さまもお気を付けください。

*このあと、フロントガラスの左隅を気にしながら運転してみたのですが、通常その部分はほとんど見えていないことに気づきました。火の手が上がるとか強いフラッシュ光があるといった特別なことのない限り、そこに意識が向かうことはないように思われます。
 やはり見晴らしがよく退屈な道でこそ、意図的にあちこち見ながら運転しなければならないということなのかもしれません。





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2017/5/24

「発達障害に関わる用語の問題」  知識

〜発達障害に関わる用語が定まらない件について
 
 昨日お話ししたNHK「発達障害〜解明される未知の世界」の中で、発達障害の説明として「ASD(自閉スペクトラム症)」「ADHD(注意欠陥・多動症)」「LD(学習障害)」と分類して下のように重なり部分も含めて図で示していました。

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 その中で問題になるのは「ASD(自閉スペクトラム症)」の部分です。ここの表記が安定しません。

 もちろんADHDも「注意欠陥多動性障害」「注意欠陥多動症候群」「注意欠陥多動症」等表記の振れはあるものの根幹の「注意欠陥多動」は変わりありません。LDについては「学習障害」以外の表現はないと思います。
 ところが図のASDの部分については、これが今回のように「自閉スペクトラム」だったり「自閉スペクトラム」だったり、「自閉スペクトラム症候群」だったり「高機能自閉」だったり、そもそも図のその位置にあるのがASDではなく「AS(アスペルガー症候群)」だったり「PDD(広汎性発達障害)」だったりと、まったく落ち着かないのです。

 日曜日の放送でも、スタジオでは「自閉スペクトラム症」としているのに読者からの投書では「私は二十歳の時に広汎性発達障害と診断されました」といった形で出され、しかも何の説明もなく何の抵抗もないまま、ふたつは同じものとして通り過ぎてしまう――。
 司会の有働アナウンサーはこの問題で何度も番組をやっているので相当に詳しく、だから抵抗なく話を進め、ファックスを送った広汎性発達障害の当事者も本質的にこの問題のプロですからすんなりと通過してしまう。しかし初めて接する人たち、あるいは学習をしはじめたばかり人たちにとって、「自閉スペクトラム症」と「広汎性発達障害」が同じものとして語られるのは相当に抵抗ないしは混乱があるのではないでしょうか。少々心配になります。

 と言うのはかくいう私が、二十年ほど前にこれらの用語の分からず、無駄に時間を費やした経験があるからです。当時はこれに重ねて「高次高機能広汎性障害」だとか「微細脳障害」だとかいうのもあってほんとうに大変だったのです。
 そもそも「自閉症」というのからして分かりません。


【「自閉症」はなぜ「自閉」なのだろう】
「自閉症」という言葉を、私はおそらく高校生のころに聞き知ったと思います。そのころ芥川賞をとった古井由吉の「杳子(ようこ)」という小説の主人公が「自閉症的」と表現されたからです。
 のちに読み直すと、それはまさにアスペルガー症的で魅力的な少女なのですが、覚えたての「自閉症」という言葉はなぜかすぐに魅力的な主人公から離れ、うつ病的なものとして私の中に定着してしまったのです。なにしろ「自閉」ですから。
“自らに閉じこもってしまうような病気”という印象が勝ってしまうのです。

 教員になって初めて会った自閉症の子がギャーギャーと騒いでばかりいる子で、とても内に籠るタイプでなく、そこで改めて「自閉症」についてしっかりと勉強し直して理解したものの、“内に籠る”という印象を変えるのはなかなか時間のかかる作業でした。

 Wikipediaなんかを読むと、最初にこの障害の研究をはじめたレオ・カナーが、
「聡明な容貌・常同行動・高い記憶力・機械操作の愛好」などを特徴とする一群の幼児に対し、統合失調症(精神分裂病)の一症状を表す用語である「自閉」という言葉を用い、「自閉症」(オーティズム)と名づけた」
ということですが、「オーティズム: “autism”」の頭の部分“aut(o)”は『「みずから,自己,自動(的)」の意の結合辞』だそうで、おそらくautarchy(絶対主権・専制政治・自治)とかautomatic(自動・自動式の・機械的な・無意識的な)と繋がるものです。
 つまり完全に独立して周囲の影響から免れているといった共通性を持っているのです。
 これに「自閉症」という語を当てた人は、やはり特殊な印象に縛られていたのでしょう。
 大雑把に言って二つに一つなら、自閉症の人たちから多く感じるのは、内に籠る暗さよりも独立覇気といった一種の気高さです。「自閉」にはやはり無理があります。しかしだからと言って「孤高症」といった新たな名前をつけても、それでしっくりするような気もしないのですが。


【では、とりあえずどうしたらいいのか】
 私が正式に「アスペルガー症候群」と診断された子どもと出会ってから20年になります。その間ずっと自閉症に関わる用語は統一されずに来ました。それはこの分野の研究があまりにも若いからです。
 自閉症研究の創始者であるカナーとアスペルガーはともに1940年前後に主たる著書を出した人ですが、アスペルガーが再評価されてカナー型の自閉症と同じ脈絡で注目されたのはわずかここ30年余りのことです。つまり歴史の浅さのために、研究者の判断や分類がまだ定まっていないのです。
 まったくド素人の私でさえも、右から左に色合いを変える印象の「自閉スペクトラム」より、東西だけでなく南北方向にも多様性があるという印象の「自閉圏」という言い方を好みます。私を含めて、そうしたこだわりを持つ人がいなくなるまで、用語の問題は解決しないでしょう。

 しかたがないので近接の言葉はすべて覚え、何が出てきても対応できるようにしておくしかないのかもしれません。

 なお、
NHKスペシャル 発達障害 解明される未知の世界 5月21日
の動画がYoutubeにありましたのでリンクを張っておきます。興味のある方は、見てみてください。
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2017/5/23

「発達障害を理解することの難しさ」  教育・学校・教師

 〜NHK「発達障害〜解明される未知の世界」を見て

 21日(日)夜9時から放送された「発達障害〜解明される未知の世界」は私たちがよくかかわりあう子どもたちの世界を、目に見える形にしたという点でとても意味ある番組でした。
 具体的に言えばADHDの子どもが教室でボンヤリ過ごす様子をアニメで追った部分と、自閉症スペクトラムの人たちが多く持つ感覚過敏を映像化した点で、とても分かりやすいものだったのです。


【授業に集中できない子】
 前者について言うと、主人公の少女は教室内で突然壁に貼られたポスターに気づき、
「あ、新しいポスターだ」
と心を奪われます。文字を読み、内容を吟味し、ああこれいいなあと思っているうちにハッと我に返って黒板を見ます。困ったことに授業はずっと先に進んでしまっているのです。
 そこからよく分からないなりに授業に集中するように努めるのですが、見ると目の前の同級生の髪についているシュシュがとても可愛くて、「ああ、本当に可愛いな」と思っているうちにまた授業から離れてしまう。そして最後は先生に、何度も何度も声をかけられてやっと気づき周囲から笑われる、というストーリーです。
 ああそんな子は確かにいるなと思ったり、そう言えば小学校の頃の私もそんな感じだったかもしれないと思ったり――とにかくちてもよくわかる話でした。
 同じアニメを繰り返し見れば、教師として対処すべきこともたくさん見つかるかもしれません。


【感覚過敏の世界】
 視覚過敏については今回初めて、子どもたちの言う「光が目に痛い」が実際の映像として見ることができました。
 昼の街の風景は露出オーバーの写真が全体として輝いているといった印象です。太陽のように直視できない強さではなく、蛍光灯の光が直接当たってバックライトのように風景の後ろに存在する言えばそれに近いかもしれません。
 「キラキラと輝くものが無数にある」という感じも映像にしてみると辛さが分かります。

 私にとっての一番の収穫は、聴覚過敏の人が聞き取る世界を、実際の音として感じとることができた点です。
 ひとつはスーパーマーケットのしんどさ。
 人の声やもののぶつかる音といった“聞こえて当然の音”以外に、冷蔵庫の唸る音、蛍光灯の発する微細な音など、専門のマイクが近づいて初めて採集できるような音が、人の声と同じレベルで耳にはいってくるのです。たしかにこれでは街にいるだけで大変です。
 聴覚過敏の人が聞き取るスーパーマーケットの騒音は、そうでない人がパチンコ屋で聞き取る音のレベルよりさらに大きいと番組では紹介していました。

 もうひとつは人の話を聞き聞き取るしんどさです。
 再現されたのは喫茶店内で雑談する場面ですが、最初はまずアナウンサーが普通の状況でこちらに向かってしゃべります。指向性のあるマイクで拾った音声ですので何を言っているのかよく分かります。
 現実の世界で、私たちは単一指向性マイクの代わりにいわゆる「カクテル・パーティー効果」(騒がしいパーティー会場でも、必要な言葉を抜き出して聞き取ることのできること)を使って選択的に声を聞き取りますから、やはり何を言っているのかはっきり分かるのですが、聴覚過敏の人たちにはそれが難しい――。番組では女性アナウンサーの声のレベルを極端に下げ、周囲の音に紛れるくらいにまでしてその様子を表現しました。
 確かにこれだと、内容を吟味する前に声を聞き取るだけでエネルギーを使い果たしてしまいそうです。


【発達障害の人々を受け入れる困難】
 番組後半ではそういう発達障害の特性を理解し、受け入れることの大切さを訴えていました。しかしそれもなかなか難しいことのように思いました。
 ゲストとして出ていた栗原類さんのようにカミング・アウトしてしまった人ならいいのです。私たちはワンクッション置いて、その人たちと接することができます。
 しかしそうではない人――発達障害を怪しむより高慢や身勝手やわがままを疑いたくなるような人々の不思議な態度・行動に対して、どこまで受容的であっていいのか、よく分からないのです。

 急に思い出したのですが、例えば、
「昨日メール送ったけど、見てくれた?(返信もないので対応をしてくれたのかどうか心配なんだけど)」
と尋ねたときに返ってきたひとこと。
「見てない」
 私はそれを“この人、どうやら虫の居所が悪そうだな。でも確認しないと困ることなんだけどどうしよう”と困惑していたりします。しかしそれが虫の居所の問題ではなく、「見た?」と聞かれたから「見てない」と返しただけの自閉的な反応だったとしたら気を遣う必要もありません。「じゃあ、こうしてね」とメールの内容を口頭で伝え直せばいいだけです。しかしそれが発達障害的なものではなく、単なる不機嫌だったらそういう言い方は火に油を注ぐようなものです。

 あるいは職場で比較的仲の良い相手なのに、話しかけるとほぼ8割以上の確率で別な話をする人がいたります。
「あの、昨日の話なんだけどさ」
「今日のお昼何を食べに行く?」
 もしかしたらそれは相手を察知しながら声をかけられたことに気づいていない、全く聞こえていない人なのかもしれません。しかし一般的に「この人聴覚過敏かもしれない」と思うより、「コイツ、人の話、全然聞いてないじゃん(無視しとる)」と腹を立てるのが普通でしょう。
 あるいは“お前の話は聞く気はない。話しかけていいのは俺様の方だ”といった偉そうなヤツだった、といったこともないわけではありません。

 相手が何らかの障害者だと分かっていればいくらでも対処できる、しかしそれが明らかでない場合、私たちはどう対処するのが正しいのか、私にとってはかなり厄介な問題です。
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2017/5/22

「誰が子どもの歯をボロボロにしたのか」  教育・学校・教師

     〜虫歯治療のジレンマ

 まだ教員になりたての頃、研究授業で訊ねた田舎の中学校の教室で、後ろの掲示板に「うしの数」という模造紙に書いた汚いグラフが貼ってあったことがありました。
 さすが山の学校、牛の数が話題になるのかと思いながら、中学校なのになぜ「牛」がひらがななのか、そもそも家で飼っている牛の数をグラフにすることに何の意味があるのか(まさかどこかの新興国のように牛の数が“富”を表していて自慢しているわけでもないだろう)と、首を傾げたものです。
 「うし」は「齲歯」、つまり虫歯のことで、グラフは治療を急ぐよう促すためのものだったと知ったのは、ずいぶんのちのことでした。

 昔の教室はこうしたグラフがいくつも貼ってありました。
「忘れ物グラフ」「宿題ノート未提出グラフ」「漢字テスト総得点グラフ」「マラソン・グラフ」・・・。
 私は忘れ物や未提出で棒を伸ばし、漢字テストやマラソンでは逆に短いチャンピオングループの一員でしたのでよく覚えています。

 現在はどこの学校のどの教室へ行ってもそうした表やグラフは見かけません。個人の能力差を明らかにしたリ辱めたりする掲示は、人権を考える上で問題があるとして遠ざけられているからです。
 しかしそれで困ることもあります。


【虫歯だらけの世代】

 私の両親は若いころ虫歯というものがほとんどなく、年齢を経てから爆発的に数を増やして最後は口の中が崩壊状態になった人たちです(母は生きていますが)。
 若いころは甘いものをほとんど食べることができず、だからこそ歯磨き習慣はなく、長じて生活が豊かになり甘いものを食べるようになっても歯磨きなどしなかったためにそうなったのです。

 彼らの子どもである私たちは、生まれながら甘いものに恵まれていたにもかかわらず適切な歯磨き指導を受けることがなかった世代です。そのため小さなのころから虫歯だらけという子が大勢います。歯の治療にかけた金は、私でもおそらく100万円は下りません。すでに総入れ歯になった友人の一人はなかなか入れ歯が合わず、50歳を過ぎてから使った金だけで車が買えると言っていました。
 散々ひどい目に遭った私たちの多くは自分の子どもに歯にとても神経質で、もっとも熱心に歯磨きをした世代といえます。そして教師である私は、クラスの子どもの歯に対しても神経質でした。


【進まない歯科治療】
 風邪や腹痛なら“我慢して放っておいたら治ってしまった”とか“自然治癒した”ということもありますが虫歯だけはそういうことはありません。放っておけば必ず悪化します。
 さらに歯科検診でC1と診断された虫歯など、歯医者に一、二度かかればそれで終わってしまいます。治療費だってほとんどかかりません。
 ですから虫歯のある子は何としても歯医者に行かせたかった――ところがこれが案外難しかったのです。

 「要治療」の勧告書が渡された家庭のうち、およそ半数は十日以内に“治療済み”の証明書を持ってきます。それから3週間以内、都合一か月以内に残りの半分の半分、つまり4分の1程度が治療を済ませます。しかし放っておくと最後の4分の1からは証明書が出てきません。そもそも勧告書が親の手元に届いていない場合だってあるのです(カバンの中)。


【歯医者に行かせるお粗末な手立て】
 私は学校の事務仕事がきちんとできるような人間ではありません。大切なこともどんどん忘れてしまいます。ですから誰が治療を済ませて誰がまだ行ってないか、そういったこは「うしの数」のようなグラフに頼るべき人間なのです。しかし時はすでに公の表示を許さない時代に変わっていました。他校で「うしの数グラフ」にびっくりしたのも、自分の赴任校ではとっくにやめていたからなのです。

 困った私は教卓の隅に、目立たないように紙を貼って、そこに勧告書の出た生徒の名前と歯科医に行く日にちを書き、朝の会のたびに、
「○○〜(当時は呼び捨て)、きのう、歯医者に行く日だったけど、行ったか?」
と訊き、行ったと言うと、
「次はいつ来いって言われた?」
と尋ね、答えられた期日を記入する、そういうことを繰り返しました。
 もちろん貧乏な家の子も、子どもの健康に無関心な家の子もいるのは承知していました。けれど貧乏だから行くのをやめましょうという話ではないでしょう。親が無関心なら関心をもってもらわなくてはなりません。ですからこの件に関しては一切妥協せず容赦せず、だから私のクラスで未治療が残ることはまったくありませんでした。
 

【何に優しい時代なのだろう?】

 このことに関して私は一度も自慢したことはありません。そんなことをすれば必ず、
「他にもやり方があるでしょ? みんなの前でその都度名前を呼ぶなんて、子どもがかわいそうだとは思いません?」
みたいな話になりかねないからです。
 もちろん記録は自分の手帳内で行って毎回こっそり呼び出して確認すればいい、それだけの話です。けれどそれが私にはできない。
私が忘れてしまうか忙しさのために呼び出す機会を失うか、そうこうしているうちに金曜日ごろ、
「先週の月曜日が治療日だったが行ったかぁ?」
みたいなトボケた話になって治療が進みません。教師としての私の、それが限界なのです。
 

 さて先週の金曜日、神戸新聞NEXTに「子どもの虫歯二極化、口腔崩壊も 経済格差背景か」という記事が出ていました。

 それによると、
 2016年度に行われた歯科検診で、虫歯などが見つかり「要受診」とされた約3万5千人のうち、歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%に上ることが県保険医協会の調査で分かった。
ということなのです。しかも、
 未治療の虫歯が10本以上あるなど「口腔(こうくう)崩壊」の子どもがいる学校の割合も35%に上った

 乳歯の数は20本、永久歯は親知らずも入れて32本しかないのです。その中で10本も未治療の歯があるとなると、その子の将来は絶望的です。今なら数千円で済む話が、将来、車一台分払っても不都合なままということにもなりかねません。
 もしかしたら「うしの数」グラフの堂々と掲げられていた時代は、今ほど状況が悪くなかったのかもしれません。

 多くの子どもはグラフに書かれるのが嫌で親に「歯医者に連れてって」とせがんだに違いないからです。
 そういうことのまったく気にならない子もいますが、参観日などに来た親が気づいて対処してくれたりします。
 もちろん子も親も気にしない家庭というのも少数ながらあります。そういう家こそ、担任が本腰を上げて対処すべき家なのです。

 歯科の受診が確認できない児童・生徒が約2万3千人、65%
 家庭のことに学校は口を挟まないという人権的配慮、子どもに嫌な思いはさせないという優しさが、将来のその子の人権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)をズタズタにする、そうしたジレンマに、学校は常にさらされています。

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