久しぶりの更新です、花粉症がたまりませんkuriです。へーちょ。
週末出歩きたくてしょうがないぽかぽかした季節になってきたのに、出歩くとへーちょなこのジレンマ。
まぁ、ほんとは花粉症気にせず出歩くんですが。後がどうなろうと全く気にせず。
さて、もうすぐ四月。そろそろ社会人2年目という具合です。それに伴って、私には結構憂鬱なイベントがやってくるのです。
何かっちゅーと、昇給。
これが上意下達な年功序列、「君が何をしようと何も変わる事などないのだよ!」的なものなら憂鬱でもなんでもなく、お給料あがれば嬉しいし、あがらなけりゃ「まったく!ウチの会社はまったく!」とか言ってビール飲んでればすぐに忘れることだろう。
しかし、私の属している社会では「当人の仕事ぶりは、近くにいる人間が一番良くわかるだろう」という前提の下、仕事に関わっている人たちの間でお互いに評価をしあう。そしてその情報に基づき給与の改訂が行われる。
私は、このシステムにあまり賛同できないのである。
評価制度そのものとしての機能は決して悪くない。言い換えれば、「どれだけ周囲の人々から尊敬と信頼を得られるか」ということになるからだ。「周囲の評価」はどんな自己評価よりも正しい。
実際に「尊敬と信頼」なんて言葉を全面に出すと批判が出るのはまず間違いないので、これを「社内で定める基準に対して適しているか」ということにしているのだろうが、それはオブラートであり、あくまで「尊敬と信頼」がこの評価制度の基盤となっているのだと考えている。
じゃあ何が不満なのかというと、その「評価」が「お金」と直結してしまっていることである。素人考えだが、私はこの「評価」はあくまで「名誉」、もしくは「参考」として留め置き、「お金」は別の体系によって(最たるものは年功序列だけど)決めるべきだと思うのである。
なぜなら、「尊敬」と「お金」は相性が悪いからだ。
昨今、「年収が人間の価値基準の一つとして捉えられるようになってきた」なんて言説も聞く。もしこれが完全に大手を振ってまかり通っているのなら、私がこれから言う事には何も意味がない。だが、それでも社会生活において、「君、年収いくら?」と直接聞く事はかなり下品な部類の振る舞いだとは思わないだろうか?
「お金の話をしない」ことは暗黙のルールであり、それを無闇に破る人間には共同体内部での尊敬は与えられない。私はそんな社会の中に居る、もしくは居続けたいと考えている。
だがこのシステムは、そうした既存の価値基準を打ち壊してしまう恐れがある。このシステムが稼働している共同体の中では、「尊敬に足る行いをすること」が、「お金のためにしていること」と誤読されてしまう可能性があるからだ。
大げさだが、社会一般に敷衍して考えてみる。
「おばあちゃん、重そうですね。その荷物持ってあげますよ」
「ありがとうね。お兄ちゃんもそうした方が得だものね」
情けは人のためならず。親切は確かに行った方にも大きく得るものがある。だがそれは隠蔽されたものだ。「徳を積む」というのが相応しい言い方かもしれない。しかしこの社会においては、構造的に「徳を積む」ことが不可能となってしまっている。
「赤毛のアン」のマシュー・カスバートの家には、労働力として必要だった男の子ではなく、誤って女の子が養子に来てしまった。
「あんな役にも立たない子をおいてどうするんですか!」と主張する妻のマリラに対し、マシューは「でも、わしらがあの子の役に立てるかもしれんじゃないか」と答えた。
この話に私はずいぶんと感じ入ったものだが、ここでお役人が割って入ってきて
「うん、マシュー、お前はなんて素晴らしいんだ。お金をあげよう」
なんてことになっては台無しである。
話がそれてしまったが、要するに私は、尊敬する人に対して「ありがとうね。お兄ちゃんもそうした方が得だものね」なんて考えを持ちたくないのである。そんだけ。
あ、もうちょっと付けたしとこう。
『ありがとうね。お兄ちゃんもそうした方が得だものね」なんて考えを持ちたくない』
のは、「構造的にそうした考えが湧いてきやすい状態」を批判しているのであって、そういう考えを持ってしまうこと自体は仕方ないと思ってますですよ。人間だしねー。