きなりずむ

2009/6/7

どうでもいい話ですが。  日々の雑記

先日、某所で「きなり」というおせんべいをご馳走になりました(笑)。
で、思ったのですが、生成り色って、染めたりさらしたりしていない色だから、そこから、「加工されていない」とか、「自然のまま」っていう意味にも使われることがあるんですよね。
そういう意味では私に合った名前だとは到底思われない…という話はともかく(^^;)。

「余計なものは何も入っていない」という意味の言葉について、少々。



以前、チョコレートショップで働いていた時に、案外多かったのが、

「むくのチョコレートはありますか?」

というご質問でした。

正直に言って、最初なんのことかわかりませんでした。

が、前後関係から察するに、何も入っていないチョコ、つまり板チョコのことだと思うんですね。会社に問い合わせても、「それしか考えられない」というような回答だったので、きっとそうなんだろうと思います。

おそらく、「無垢」ってことじゃないかと。

こういう言い方って、方言でしょうか?それとも、年代によって使う方がいらっしゃるんでしょうか?

「むくのチョコ」…。当時けっこう謎でした。いまだに、「多分そういう意味で合ってたんだよね??」という程度の自信しかありません。


ちょっと意味は違いますが、「ナマ」って言葉もかなり広義に解釈されてるような気がします。

生野菜のナマと、生チョコや生キャラメルのナマは違うじゃないですか。でも、たまにですが、同じと思っている方もいらっしゃいました。これはチョコレート屋時代、わかっていただくのに苦労しました。

ナマのチョコレートを加工して、普通のチョコレートができる。と、思っている方もいらっしゃったわけです。

でも、それは「生チョコ」っていうネーミングのせいだと思うんですけどね!混同しても仕方ないですよ!
(生チョコとは、チョコレートに生クリームを加えて、柔らかく口解けの良い状態にしたもののことを言います。念のため。)

ちなみに生クリームは、牛乳から乳脂肪分だけを分離してとりだしたもの…なんですけど、生クリームという呼び方は俗称です。そして、植物脂肪分や添加物を加えたものであっても、通常「生クリーム」と呼びますね。まあでもこっちは加熱しているわけではないので、生野菜のナマと同じと言ってもいいのかな。なんかちょっと腑に落ちない気もするんですけど…。

ナマ=新鮮な

という捉え方が、今の使われ方には一番マッチしているのかなあ??

芸能人なんかを直接見た時、「ナマ○○に会っちゃった!」と言うのは、国語辞典チックに表現したら、どういうことになるんでしょうか。

生・@実物・本人のこと。

…箸にも棒にもひっかからないような言い方ですね…

生半可とか生煮えだと、「中途半端」「途中」の状態なのに、そのものズバリな「生○○」をあらわすこともできるとは、「ナマ」ってすごく広い意味の言葉だなあ、と思いませんか??(^^)
私にとっては、まだまだ謎な言葉です。侮れないぞ、「ナマ」!!


最後に「むく」に戻りますが、「むく犬」って最近聞いたり読んだりしないですね。(ドラえもんに「むく犬」って言葉が出てきたような??)あれは「むくむくした毛並み」のことだと思っているんですけど、違うのかな?知っている方がいらっしゃいましたら教えてください!
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2009/6/5

読書について  日々の雑記

今までの人生トータルで考えて、私の読書量はそれなりに多いほうだと思う。
が、「あ、それ読んだ?私も!」と、他の読書好きの方と一緒に盛り上がれる回数は、その割りには少ない気がする。

どうしてかなあ…。

…と考えたことがあって、その時思った結論と、今なんとなく思いついたことを書いてみる。


人生のうちで一番本を読んだのは小学生の頃。これは間違いない。少なくとも一週間に十冊は読んでいた。どうすれば家族にバレずに(←「宿題は?」「塾の時間でしょ?」と言われるのを避けるために)本が読めるか考えながら、目立たない所でこっそり(?)読んだりしていた。

当時どういう基準で本を選んでいたかというと、今から思えば
「いかにトリップできるか?!」
…これにつきる。

小学生だから、「どうやって生きていけばいいか…」なんてことの答えを本に求めるはずもない。
なるべく「現実」から遠い世界で、あり得ない体験を本の中でしてみたい!!というのが一番の理由。

それから、喘息の発作が出た時に、そのつらさを忘れさせてくれるくらい、ハマれる物語に出会いたかった。

…そんな風にして読書暦を重ねてきたせいか、いまだに「つらい」とか「痛い」とかの物語は苦手だ。
「泣ける!」という評判にも、あまりそそられない。

しかし最近の流行りの小説は、ほとんどと言ってよいほど「痛い」ものが多い気がする。(はずす意味なんかのイタイとは別です、念のため。)
身体的な痛みがリアルな描写のものとか、読んでいて精神的苦痛を伴う(特に、現実社会に近い設定の)もの。
そういうのが、あまり好きではない。
「ああ、これって私みたい!」というような悩みを抱えた主人公に会うのなんてまっぴらだ。
小説としての良し悪しとはまったく別の話だが、私には私の測り方がある。


「子供時代に空想的なものばかり読んで逃避していると、現実社会に馴染めない大人になる」という考え方もあるようだが、それは私は間違っていると思う。

本というドアを開ければ、いつでも行ける。

ということが重要なのであって、それを知っている子供は、空想と現実をごっちゃにしたりはしない。

もし、空想の世界から何かを持ってくるとすれば、こんな人になりたいな、こういう人にはなりたくないな、という気持ちだけだ。(大人になって本当にそうなったかどうかは別として…^^;)

それ以外は、
「あー面白かった!」
で、オシマイ。

そういう読み方をしてきてよかった、と今でも思っている。

が、それはそれで「偏っている」こともまた、事実かもしれない…。

(以上は、あくまで「小説」についての話。小説以外のノンフィクションやルポルタージュ的なものに関しては、痛みを伴うことがあっても当然なので、それはそれで読みます。)

こう書くと、流行作家はみんな嫌いみたいだけど、村上春樹は好き。
けど、まあ、社会現象とやらが収まってから、読むことにしようかなあ…!
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2009/5/27

ついに…  ニュースを読んで

恐れていた事態となってしまいました。
栗本薫さんがお亡くなりになられるなんて…。
ご本人を存じ上げているわけではありませんが、とても生命力のある華やかな方のように思います。
でもやはり、どんな方であっても、人の肉体はいつか、なくなってしまうのですね…。


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2009/5/27

栗本薫さん  携帯から

訃報を聞いてショックを受けています…。また改めて日記を書きますが、まずはご冥福をお祈り致します…。
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2009/3/22

ネバーエンディングストーリーレス  児童文学・絵本

 


まずは悪七兵衛景清さんに御礼申し上げます。早速のコメントありがとうございます!

リマールのテーマ曲は私も好きです 実は、「for てつ」という、自作お気に入り曲集の中にも入れてます

あの映画で許せないのは、最後あたりでドラゴンがいじめっこ達をゴミ箱に落とすようなシーンがあったじゃないですか。あれは、原作を読む前にもちょっと違和感あったのですが、原作を読んで、エンデのメッセージとは全く反するものだと判明し、ちょっとあきれちゃいました。よくもまあ、ああいう終わり方(そのシーンのことだけではなく、大変意味のある物語の後半を、全く描かない終わり方)にできたもんだ。恥知らずだなあ!!と思いましたよ。キャスティングが良かった分、余計に残念でした。

原作では、ファンタージェンと現実との「架け橋」となることが大切だというメッセージを(少なくとも私は)受け取りました。ファンタージェンだけに住んで、独りよがりの想像=創造の世界だけで思いのままにふるまおうとする人間の、哀しい末路が描かれているところに、エンデの凄さを感じます。バスチアンがその末路に入り込んでしまいそうな場面の数々が、私にはちょっと哀しすぎて、読むのがつらいくらいでした (正直な話、そのつらさ故に、私は「はてしない物語」よりも「モモ」のほうが好きです。) ファンタージェンには、行くことも大切なのですが、帰ってくることもまた大切なのですね。

(行きっぱなしの話として、安部公房の「砂の女」について考えてみるのも面白い気がしますが…。脱線するのでここでは書きません。)


今日の締めくくりとして、講談社+α文庫『「子どもの目」からの発想』(ISBN4-06-256434-3)から、著者河合隼雄さんの言葉をお借りします。

子どもの目は大人の目のように常識によって曇らされていないので、現実の多層性を見ぬく力を持っているのだ。そこに児童文学の存在意義がある。

子供の頃からずっと児童文学好きな私は、周囲から(決して悪意ではないのですが)「まだそんなお子ちゃまな本読んでるの?きなりチャンて夢があってかわいいのねー。」的な言葉を投げかけられても、うまく反論できず悶々とした時期がありました。だから、河合さんが児童文学についての本を多数書かれているのを発見した時は、とても嬉しかったです。

もう一文、同じく『「子どもの目」からの発想』より。

 子どもが成長していくにつれ、だんだんと外的現実に直面し、それに立ち向かっていくことができるように、われわれは期待しているのであるが、そのような態度を支えるものとしてファンタジーが存在するというパラドックスを、大人はよくよく心得ておく必要がある。
 子どもからファンタジーを奪うことによって、彼らはまったく存在の根を絶たれてしまうことになるのである。


また児童文学について書いてみたいと思います。今日はこのへんで失礼します。

〜河合隼雄さんの関連書〜

 
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