4日,市立美術館を出たのち,黎明館の企画展
「縄文人のこころと祈り」(〜05/06)を拝見する。
県内の縄文遺跡出土の,いわゆる「祭祀遺物」とされる土製品・石製品が多数展示されている。独鈷石や軽石製岩偶,三角柱状土製品などである。県内の関係資料がこれほど並ぶ展覧会も珍しいのではなかろうか。
そんな資料を拝見しながら,私たち考古学者はなぜそれらを「呪具」とか「祭祀の道具」とか「信仰の対象」などと考えるのかを,つらつらと考える(以下「祭祀性」と呼ぶ)。
揶揄するわけではないが「鰯の頭も信心から」などと言うように,あるモノが「祭祀性」を帯びるか否かは,コンテクスト次第であると思う。
たとえば小さな祠の中に河原石が置かれていたら,それは「ご神体」なのである。もちろんその石には,なんらかの「いわれ」やら「由来」,広い意味での「物語」が付随しているのであろうが,それを知らない人間にとって,その河原石を「ご神体」と考えるのは,それが祠の中に置かれているから,つまり「祠」というコンテクストゆえにである。祠が無くなれば,「ご神体」と「単なる河原石」を区別する手がかりを,私たちは持ち得ない。
逆に言えば,「単なる河原石」でも,その出土状況が特異ならば(たとえば河原石が円を描くように配置されている,とか),その河原石に何らかの「祭祀性」を想定する。このことは日用の利器類(石鏃や石斧,土器など)においても同様である。本展でも石斧などを埋納した「デポ」も取り上げられていた(もっともデポの場合は,すぐに「祭祀性」に直結するかどうかは,議論もあるが)。
つまり自然物でも日用品でも,使われ方=出土状況=コンテクスト次第では「祭祀性」を持つモノとして想定されるのである。
さらに単体でも「祭祀性」を持つとされる場合はどうか? 大きくふたつパターンがあるのではないかと思う。
ひとつは「非実用性」である。「剣」の形をしていても,剣としての機能(モノを切る)がないといった場合から,岩偶のように、それ自体から実用性が想定しにくいものまで多様である。ただ厳密に言えば,現代の私たちがそのモノの「実用性」を想定し得ない場合に,そこに「祭祀性」を見る。言うまでもなく,その「実用性」というのは,私たちの想定内での話であるから,私たちの知らない,想定外の「実用性」がある,という可能性は常に残る。
もうひとつは(これも「非実用性」のひとつかもしれないが)「過剰な装飾性」である。土器としての実用性(煮沸・貯蔵・供膳)を満たしつつも,その実用性に結びつかない装飾が施されているとき,そこに何らかの意味の付与を想定する。それがより過剰であればあるほど,実用性だけでは説明しきれない「祭祀性」を想定したくなる。
整理すると,とりあえず下掲のようになるだろうか。
ただいずれにしろ,私たちは考古学資料をまず「実用性」という観点から見て,その「不在」あるいはそれからの「逸脱」をもって,「祭祀性」を想定していることになる。そんな「実用性先行」の見方そのものが,「物質文化理解」として,はたしてどこまで有効なのかどうか。それも考えてみないといけないのかもしれない。
いまいちまとまりがない上に,尻切れトンボみたいだが,「つらつら考えたこと」ということで,ご容赦いただきたい。