今日一日の授業が終わる。
ホームルームもこれといった問題もなく終了する。
そしてクラスのやつらは各々に、放課後の活動へと向かっていく。
俺も教科書やら参考書やらをバッグにしまいこんで、帰り支度をする。
ふと、なにやら硬い角ばったもので肩をつつかれた。
「ん?」
それは昼に俺がお隣さんに貸したノートだった。
俺は何も言わずにそれを受け取る。
「サンキューな!」
「いや、別に」
この男はこれまでの一年間、一体どんな過ごし方をしたのだろうと、
俺は訝しく思った。去年のノートとか持っていないのだろうか?
「オレ去年まともに授業うけてないんだわ」
そいつはまるで俺の思考を読んだみたいにそういった。
そして平和な家で飼われている犬みたいなあくびをし、
首を回してコキコキと鳴らした。
「一体なにやってたんだよ」
「気になるか?」
そう言ってそいつは俺に向かって身を乗り出してくる。
うむ、いささか距離が近いな。俺は少し身を引く。
「別に……なんか色んな噂は聞くけどさ、正直どうでもいい」
「ふぅん」
まるで品定めをするようにして、やつはしげしげと俺を眺めてくる。
それはもう、俺の顔のニキビの数を数えているんじゃないかと思う
ほどに。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「いや、案外まともな奴もいたもんだと思ってな」
はい?
「俺がまともだって?」
「ああ、そうだ。このクラスで、俺のことを『どうでもいい』なんて
心から言えるのは、たぶんお前だけだ」
んん? いまいちよくわからんぞ。それってまともっていうのか?
むしろ変わり者なんじゃないか?
「そこがまともなんだよ」
またしても風人は俺の心を読んだみたいにそう言った。
その驚きを誤魔化すために、俺はついつい「右側頭部やや後ろ」
を手でかいてしまう。そしてあわててそれをやめる。
この癖は直さなくてはいけない。
誰に直せっていわれたんだっけな……ああ、アイツか……。
「ところでさ」
「なんだよ……」
「便所とかいきたくね?」
「はぁ?」
連れションに誘われてしまった。それにしても唐突なやつだ。
きっとあれだ、思いついたら実行せずにはいられないタイプだ。
いかんな、入学そうそう変な奴に気に入られてしまってはかなわん。
そしてこいつは絶対に、人の平穏な生活を無自覚にかき乱していくような
そういう人間に違いないのだ。
しかしまあ、便所に行きたくないわけでもないんだ。
昼休みに行きそびれて、膀胱には結構な量がたまっている。
まあいいさ、帰り際にサッと済ませて、当たり障りのない会話を
して終了さ。
「行きたいっちゃ行きたいんだが……」
「が……」の点々の後を続けずに、俺達はバックを肩にかけて立ち上がる。
そして廊下に出る。教室からトイレまでの距離はそんなにないのだが、
トイレにたどり着くまでの間に風人は実に色んなことを俺に聞いてきた。
家にいるときは何をしているのか。
勉強できるのになんでこんな平凡な高校に進学したのか。
前に座っていた女子達の中で誰が一番まともだと思うか。
年上と年下と、どっちが好みか。
俺は当たり障りのない返答をしながら、一つだけ質問を返した。
「その裏ボタン、どこで手に入れたんだ?」
「ああ、これか」
そういって風人は自分の襟を掴み、裏返して見せてきた。
「自分で作ったんだ」
作った?
まるで予想外な返答だった。
通販か何かで手に入れたというのなら普通に納得できるし、
他にだれか不真面目な奴らとつるんでいて、そいつらから分けて
もらったとか言ってくれば、それこそこの男とはあからさまに距離
を置いてやるつもりだった。
「ど、どうやって?」
「家の近くに工房があるんだ。たまに借りてやってる。結構楽しいんだぜ?」
「ふーん」
そして俺達はトイレに入り、二人並んで用を足す。
たまりたまった御小水は、二人の間に空間に、想定外に親和な雰囲気を醸し
出すのに十分な時間をかけて、とめどなく流れ落ちた。
そして俺達は手を洗ってトイレを出た。
ちょうど廊下で、あきらが中学の時に同じサッカー部だったヤツら
とダベっていた。
あきらは俺と風人が一緒にトイレから出てきたを見るやいなや……
「あっー!」
「なんだよ……デケえ声だすなよ」
「きみたち! もうそんなに親睦深めちゃったの? どういうわけなの!」
風人が何か間違った場所に置かれた漬物石を見るような目であきらを
見ると、あきらはすっかりすくみあがってしまい、「ひいぃい! ご、
ごめんなさーい!」と情けない言葉を吐いた。
風人は口元に不適な笑みを浮かべながら、あきらに言った。
「よくもお前、根も葉もない噂たててくれたな。ああ?」
「い、いいい、いやー! あれはですね! その、ついたまたま
聞いてしまいましてね! ぼ、僕もまあ、あらぬ噂に流されてしま
った犠牲者の一人でしてね! なんといいますかそのつまり……!」
ちゃららららーん、ちゃらららららーららー。
あきらの言い訳演説を断ち切るようにして、忘年会の出し物にでも
使われていそうなBGMが鳴り響いた。
風人は光の速度で相手の名前を確認し、そして少し間をおいてから
電話に出た。
「うぉう! ヨーコか! どうしたんだよ、久しぶりじゃないか。
ああ? そうだよ、いまガッコ終わったところだよ、今なにしてんの?
ええ、まじ? おもしろそーじゃねーの、すぐ行くよ!」
突然、風人のテンションがあがった。
どう考えても電話をかけてきた相手は「女」だ。
俺達はただポカーンと口をあけて、その様子を眺める。
「そうそう、でな、こんや家に誰もいないわけよ。だからなにやって
も全然だいじょうぶだぜ? いやだいじょーぶだって。そう簡単に
バレるもんじゃないよ。ああ、そうだな、その辺はま・か・せ・る・ぜ
んじゃな、またあとでな、じゃねー」
そして風人は電源を切る。そしてやけに真剣な顔になった。
まあ、わからなくもない。理屈はよく知らないが、
女と電話で話をしたあとは、何故か真顔になってしまうのだ。
「というわけで」
どういうわけだ、おい。
「ちょっと急いでいかなきゃなんねーんだわ、じゃーな。
また明日なー」
そいうって奴は手をブンブンと振って、そして小走りでどこかに
行ってしまった。
俺はおもむろにあきらの方を見る。なんだか目がめだかのように
泳いでいた。
「ね、ね……」
ね?
「根も葉もある噂じゃないですかー! なんなのですかあの遊び人!」
「さぁな……、ま、一年にして留年しているあたり、まあまともな
人間じゃないのさ……。じゃあ、俺も帰るわ」
「え、ええ? ちょっとクナシリ。サッカー部見にいかんの?」
「ああ、なんかだな。そういう気分じゃないんだ。しばらく帰宅部でいる」
「そ、そうかー」
「じゃあな、また明日」
「ああ、またな」
別れ際に少し振り返ってみる。
あきらは少し寂しそうな顔をしていた。
中学の時、俺はあきらと二人でツイントップをやっていた。
突破力のあるあきら、制空力のある俺。
まあ、そこそこイケているコンビだったと思う。
でもはっきり言って、俺の中学のサッカー部はそんなに強くなかった。
主将でトップ下をやっていた池上って奴が、プロになることを目指して
室蘭大谷に行ったけど、他の奴らはみんな、ただ面白半分で球を蹴って
いただけのようなものだった。
俺自身、プロになりたいと思わなかったといえばそれは嘘になる。
それは、俺の中に数多ある未来の可能性の一つとして常に存在していた。
しかしその可能性は、極めて実現性の低い、一つの妄想のようなものでし
かなかったのだ。
3年の最後の公式試合の2回戦で負けて、さしたる悔しさも感じずに
家に帰って風呂に入り、鏡の前で筋肉だけはやたらとついた
自分自身の体をかえりみて、俺はこの3年間はただの体力作りだったん
だなと思い至った。
そしてその瞬間に、すべての情熱は数多ある可能性の世界、
そのいずこかへと流れ去ってしまったんだ。
「ふん」
俺は意味もなく空に向かって鼻をならしてみた。
何がどうなるわけでもないけどな。
こんな感じに、甘い感傷で退屈な帰り道をまぎらわしている間に
例の橋にたどり着いた。俺はその橋の向こう、できるだけ遠くに
視線を伸ばす。
そしてアイツが来ていないことを確認する。
今朝みたいにバッタリなことにはなりたくない。
そしておずおすと橋を渡り始める。
この間、池上から電話があったことを思い出す。あまり元気そうではなかった。
室蘭って街には、白鳥大橋っていうデカイつり橋があるらしい。
街はひどく寂れているけど、その橋だけはとても立派なのだそうだ。
池上はそんなことを話してくれた。
室蘭はここからそう遠い街ではないのだが、俺はまだ行ったことがないし、
わざわざ行くほどの価値のある街とも思えない。
さほど難易度の高くない工業大学があるから、理数系の科目を
得意とする俺にとって、まったく縁のない街とも言いがたいし、
一度池上にも会いに行きたいとは思う。
しかしはっきりって、いまのところはまるで興味がわかない。
橋の中ほどで立ち止まり、遠くは日本海へと流れ込む尻別川を見る。
流れはとどまることを知らず、まるで時の流れのようにして俺の
眼下を過ぎ去っていく。
俺はこれからいったい、どこへと向かうのだろうね……
――ガチャン! ガタゴト!
突然どこからともなく金属的な音が響いてくる。
なんだよ一体? 人がせっかくいい感じに物思いに浸っていたというのに。
橋のたもとから聞こえてくるようだ。
何かの機械をいじっているような音だ。
橋の手すりから身を乗り出して、あたりを眺めてみる。
すると橋の下の土手で、作業着を着た爺さんがスパナ片手に何かやってる。
なんだろう、あの金色のアルミホイルみたいなものに覆われた物体は。
まるで人工衛星みたいだ。
不審人物が爆弾を取り付けているとか……? しかも白昼堂々。
……まさかね。
俺はとりあえず何も気にせず橋を渡りきる。
この街にはどういうわけか科学技術関連の研究所が多い。
きっと何かの実験をしているのだろう。
仮にあれが爆弾か何かで、明日あの橋が木っ端微塵になっていたとしても、
まあ、それはそれで面白い。
きっと学校には遅刻するだろうけどね。
なんだかよくわかんねえけど、爺さんがんばれよ。
どういうわけか俺は、そう心のなかで思わずにはいられなかった。
あの爺さん、ひどく深刻な顔つきをしていたから。

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