がんになっても、あわてない

 という本(朝日新聞出版)を書いた医者の、なんでもブログ。

 
医療関係者向け資料集「緩和ケア医のらくがき帳」も、よかったらどうぞ。

プロフィール

平方 眞(ひらかたまこと)
 緩和ケア医師
愛和病院(長野市)副院長

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投稿者:hirakata
りかゆさま、こんばんは。

いい感じのコメント、ありがとうございます。この本を読んで「放置して医療を遠ざければ、大往生できるんだ」と思った人のうちの結構な割合の人が、大往生できない気がします。

「大往生」自体が定義が曖昧で、ある程度まで生きてぽっくり逝くのがそうだと思う人もいれば、90歳を超えないと大往生とは言わない人もいるでしょう。全てに満足のいく死に方でなければ、大往生とは言わないという人も結構いる気がします。

100点満点を目指せば、不満だらけになるのは当たり前ですよね。例えば60点以上は合格、とすれば、「もっと頑張ればもっと良かったかもしれないけど、でも自分なりによく頑張ったよね。合格合格。」と思えるんじゃないかと思います。逝く人も送る人も。
投稿者:りかゆ
「大往生でなく中サイズ往生で良いとお考えなら、ここはひとつ、 医療と向き合ってから、逝きませんか、医療も進んだこのご時世、折角ですし」とさせて貰いたいです(笑)。

母の主治医は、心も診て下さる外科医でした。


私は、患者さんご自身は、こんなにも良くして貰っている、十分に看て・診て貰えたと納得したら、旅立つ(逝く)のだと思います。
投稿者:うどん
先生のお言葉を何度も読み返しました。なんだかスッと胸に落ちました。怒りを科学で考えることをしたことがなかったので 妙に納得させられました。感情に流されているときは、水のように低きに流れ、それがまた楽だったのかもしれません。恩を仇で返されたと恨んでもみましたが、先生の云われるように 私はそれで実力を伸ばせたのかも知れません。お金は流れるもの。私が失ったお金や労力が真実ならば またきっとどこからか私の手元に巡ってくるのではないか?という気持ちになりました。先生が諏訪中央をお辞めになったことは、喪失ではなくて再生だったのかも知れませんね。見ず知らずの私のために真摯にお答えいただいてありがとうございました。常時でなくても、先生がカウンセラーとしてお仕事をしてくだされば、きちんと料金を支払ってお話を出来るのに、と思いました。暗いトンネルに灯りを点していただき、感謝します。
投稿者:hirakata
うどんさま、こんにちは。返事が遅くなりました。

人間にはいろんな人がいて、その中には「自分は間違ったことはしていないんだから、自分に災厄が降りかかってきたら、それは誰かの責任」ということにしないと、自分を納得させられない人も、結構います。

「自分は間違ったことはしていない」の方が間違っている人もいて、そういう人に間違っていることを認めさせるのは、ほとんど無理です。

それとは違って、間違ったことは確かにしていないけれど不幸な気持ちになった人が、それを誰かのせいにしないと気が収まらないというのは、「誰も悪者がいなくても、不幸な展開になることはある」ということを理解すると、落ち着くこともあります。でも落ち着かない人も多いです。その分かれ目は、生まれつき決まっているのか、そうではないのか、私にはまだわかりません。

とにかく、「自分は間違ったことはしていない」→「誰かのせいにしないと」という思考になってしまったために、あなたがようやく絞り出した善意のお金や時間や労力を踏みにじったことを正当化するためには、罵倒せざるを得なかったんだろうと思います。これは決して相手の人の肩を持っているわけではなくて、そういう思考に陥ってしまった人は、そのようにしか考えられないということです。

↑という書き方をしたのは、うどんさまが「段々落ち着いてきた」と書かれていたからです。まだ湯気が立っているような時には、この書き方では、私までうどんさまの敵に回ったと受け止められていたかもしれないと思ったり。

それと、普段は普通に見える人が、お金が絡むと(額の多少には関係なく)突然ずるい人、嘘つきな人に変貌してしまうのも、これまで何度か見たことがあります。「お金って怖い」「人間って怖い」と思いました。

時間と労力とお金は、戻ってくることを期待してそこに注ぎ込んだわけでもないでしょうから、気前よく忘れましょう。そこに力を注いだことで、うどんさまの実力は、その分伸びたと思います。それをこれからの人生に活かして下さい。ではまた。
投稿者:うどん
何度もすみません。私は一言で言うならば、恩を仇で返されました。時間、労力、お金をかけてしてきたことを、まるで悪党のように言われています。それがなければどうにもならなかったときに渡したお金も踏み倒されました。踏み倒されるならまだしも、返さないことを正当化するための誹謗中傷と罵倒でした。 お金は諦めます。ただ、そのときに助けた気持ちまで踏みにじられたことが悲しいです。時として人はなんて非情なんだろうと思います。私も書いていて段々落ち着いてきました。
投稿者:hirakata
できるだけのことをやって、それでもうまく行かないことは、特に病気がからんでいる時などにはよくあります。それを何のせいにして気持ちを落ち着かせるか、とっても難しい場面に、仕事上頻繁に出会います。

場面によってどのように話を進めるかはそれこそケースバイケースですが、逆恨みされそうにない場合には私は自分の能力(予知能力)の足りなさのせいにすることが多いかもしれません。

誰も悪意を持った人がいないけれど、どうにもうまくない感情が渦巻いている場合には、「これは誰が悪いんでもない。病気がこちらの思惑通りになってくれなかったことが、一番の原因なのでは?」と、病気のせいにすることも、割とあります。

自分は医者になってから22年ほどたって、それなりに大変な場面にたくさん出会ってきたので、ようやくそのような対応にもある程度の自信が持てるようになってきた気がしますが、その場にいるみんなの知恵を総動員しても、「これで良かった」と思えない展開になってしまうことも多いのが、緩和ケアという仕事の現場の過酷さだとも感じています。

それでも「できるだけのお手伝いはできたと思っています。」ということは言ってもいいぐらいの仕事は、やっているかなあと思うんですが、でも何らかの不信や不満を持った人には「この医者はこれで丸く収めようとしているな」と思われていないか、ビクビクしているのも事実です。

人の目が怖いというのは、「みんなが悪者を探している。そしてその矛先が私に向かないかどうかが怖い」ということかもしれません。でも、それぞれの人が、それぞれ不十分ながら(完璧な人なんていませんから)できるだけのことをやったのなら、結果が不本意でも「甘んじて」受け入れるのが、これからにとっては最善の対処なのかなと思ったりします。
投稿者:うどん
お答えいただきありがとうございました。先生も苦しんだのですね。手抜きをして、いい加減にやっていたなら、裏切られても憎しみは湧かないのかも知れません。相手のことを思い、やるだけやった結果だからこそなのかもしれないですね。私は、はらわたが煮えくり返る思いと戦かっていましたが、それが自己を責める気持ちに変わってきています。そして 人の目が怖いです。
投稿者:hirakata
一晩明けて、続きです。

誰の本だったか忘れましたが、「どうしても許せないことを誰かにされた時に、それを許そうとしなくても良い。あなたに必要なのは許すことではなくて、許さなくてもいいからそれを乗り越えることだ」というようなことが書いてありました。加藤諦三さんだったかな。

その時の私はそのことばを受け止めるのにぴったりの状態だったらしく(ちょっと前では落ち込みすぎていて受け止められなかっただろうし、ちょっと後ではインパクトが薄かっただろうし)、「今このことばに出会ったのも、運命の一つなんだろう」と思いました。これでだいぶ視界が開けて、生きていく力が出てきたように記憶しています。

当時自分で書いていた文章などを読むと、自分が精神的にも身体的にもいっぱいいっぱいで、限界に近い(か、限界を越えた)状態だったんだろうと思います。人から見える文章でも自分でそう感じるんですから、自分自身はさらに切羽詰まった状態だったのかもしれません。

当時は「医者は24時間365日、患者さんのために動くことを最優先しなければならない」と思っていました。しかしそれが可能な業務量ではなかったことに、その環境を離れてからようやく気がつきました。5分間で50回脈が飛んだりして、これも「死ぬのかな?」という恐怖につながっていましたが、その環境から離れた今では、不整脈は無くなりました。体の警告だったのでしょう。

結果的には私の場合、自分で何とかしたというよりは、さまざまな運命と、新しい環境の仕事仲間と、時間の経過に助けられたという感じかなと思います。

質問に答えるように考えているうちに、自分の悩みを整理するような回答になってしまいました。こんなのでお役に立てるかどうかはなはだ自信がありませんが、とりあえずこのへんで。
投稿者:hirakata
うどんさま、こんばんは。

私がひどいことを言われた時は、すでに別のことで打ちのめされていたので、怒りが湧く力も残っておらず、ただただ泣いていました。ひどいことを言っている人の前で。はらわたが煮えくり返るようになったのは、少し力が戻って来てからです。その時には私にひどいことを言った人には会わない環境に変わっていたので、その人に怒りをぶつけることはありませんでした。でもその後その人に会う機会があって、何事もなかったかのように笑いかけてきた時には、社交辞令で笑顔は返しましたが、向こうを向いた後で張り倒したくなりました。しませんでしたけど。

今でもその人と会えば会釈はできると思いますが、不快な気分は生じるだろうと思います。でもひどいことを言われた当時に比べれば、その不快さは薄れてきているような気がします。顔は笑顔で心は嫌悪感というのは、自分の精神にストレスをかけているんだろうなとは思います。でも自分が怒りを表に出すことで、人間関係を悪化させたり誰かに不快な気持ちを抱かせてしまうんなら、飲み込んで笑顔でいた方がいいんだろうなと思ってしまうんです。社会にとってはいいことなのかもしれませんが、自分の精神衛生上は良くない性格だと思っています。だから、どうすればいいのかは私の中には答がありません。行き場のない悔しい思い、私の中にもいくつもあります。どうすればいいんでしょう。
投稿者:うどん
先生は、はらわたが煮えくり返る思いはどう解決されましたか?一生懸命尽くしたのに、一方的に裏切られて、「ありがとう」の言葉の代わりに罵倒や誹謗中傷をされたら どうやって立ち直れば良いのでしょうか? 行き場のない悔しい思いはどうすれば良いのでしょうか? 教えてください。
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