嘉永4年(1851),薩摩藩主となった島津斉彬は,近代工業育成を目的とした集成館事業に着手する。その内容は,製鉄・造船・電信・ガス灯・印刷など多岐にわたるが,斉彬の急死(1858年)により頓挫する。この斉彬時代の集成館を「第I期集成館」と呼ぶ。現在,鹿児島市磯邸園内に残る反射炉跡(下の写真)は,この時期のものである。
集成館の中核であった磯一帯は,文久3年(1863)の薩英戦争により灰燼と帰すが,その結果,近代工業化の必要性を痛感した薩摩藩は,集成館事業を再開する。これが「第II期集成館」である。現在の尚古集成館本館となっている石造の機械工場(下の写真)や技師館(異人館)は,この時期の建造物である。
この集成館も,維新後,明治政府に移管されたのち,明治10年(1877)の西南戦争により焼失する。
さて「第I期」と「第II期」は,ともに集成館と呼ばれ,近代工業化事業としては共通するが,そのあり方には違いがあった。
「第I期」では,西洋の近代工業技術に関する情報は,もっぱら書籍によるものであり,その実現には,在来手工業技術が応用された。たとえば反射炉用耐火レンガ生産には薩摩焼の陶工が関与し,熔鉱炉建設には在来製鉄技術者が関わっていた可能性がある。反射炉基壇の建造もおそらく在来石工集団によるものであろう。
それに対して「第II期」では,西洋から機械を輸入するとともに,イギリスより紡織関係の技術者を招致している。いわば「技術の直接移植」がはかられたわけである。しかしながら,上掲の機械工場などは,地元の大工や石工の手により建設されたものであり,在来手工業技術も一定の役割を果たしていた。
つまり,同じ「集成館」であっても,そのコンセプトや実現化プロセスには,大きな違いがあったと言えよう。
以上の違いは,鹿大工学部の門久義先生からのサジェスチョンを受けてまとめたものであるが,今回,以下のような模式図とともに,拙文で発表させていただいた(ブログ投稿に際して文章を改変しているが)。
渡辺芳郎2007「日本最初の洋式高炉(熔鉱炉)跡の発掘調査」『技術史教育学会誌』8-2 pp.3-8