以下の内容には,多分に想像が入っていることを,最初にお断りしておきたい。
万延元年(1860),加治木島津家の保護のもとで磁器窯・日木山窯(現加治木町日木山所在)が開窯される。その現場担当者のひとりは,家臣の新納仲之進で,彼の日記が残っている。また加治木町教育委員会により窯跡が発掘調査されている。
開窯にあたっては,苗代川の「肥前伝焼物主取」(「肥前伝焼物」=磁器,「主取」=責任者)の白欣圓が招かれている。また現在の龍門司窯場には,日木山窯で使用していたという,「万延二酉」「車仲覚」銘の磁器製ロクロ軸受けが伝世している。車姓の苗代川陶工が日木山窯に来ていたことがうかがわれる。
なお白欣圓は,代々,平佐焼窯場で磁器生産に従事していた白姓陶工のひとりで,弘化3年(1846)の苗代川の磁器窯・南京皿山窯開窯にあたって,白欣碩とともに呼び戻され,主取に命じられた。
ところが日木山窯は,文久元年(1861)10月までに11回焼成するものの,十分な収益が上げられなかった。そこで同年12月に,平佐焼の主取・落合文右衛門と陶工・絵師各2名を招いた。また文久2年5月の新窯築造の際には,平佐の実右衛門ら5名の「竈打」が呼ばれている。
平佐と苗代川の陶工たちは,それぞれ別々の工房で作業したという。また両者では賃金の支払い方法にも違いがあったようで,苗代川職人が「賃取細工」(日当制)で,平佐職人が「請細工」(出来高制)だったと推測されている(この違いによって,おそらく製品の質と量にも違いが現れたのではないかと想像される)。
両者の間での新納仲之進の気苦労が日記からうかがわれる。
ではなぜこのような違いが生じたのか。
想像するに,当時の平佐焼窯場と苗代川窯場の藩内における位置付けの違いが背景にあったのではなかろうか。
平佐焼は,藩内の私領主・北郷氏により保護・管理されていた窯場である。それに対して苗代川は,調所広郷の「天保改革」以後,幕末まで,積極的な産業振興策により藩の保護・管理を受けていた(磁器生産の開始そのものが振興策の一環である)。
両者の違いを示唆する記述が,藩直営の山林「御手山」の管理をまかされた山元家の文書に見られる。「御手山」からは,磁器釉薬の原料となる柞灰が,肥前などに出荷されるとともに,藩内磁器窯にも供給されていた。
前山博氏は,慶応2年(1866)5月に,ほぼ1ヶ年分の領国内林産物を報じた資料から,柞灰に関わる,以下のような文章を紹介している。
一、柞灰 壱俵ニ付凡三斗六升入
凡四百俵 壱両位ニ見賦 地□
平佐并加治木用分、苗代川御用等見賦
代金四百両
凡三千俵 肥前御売渡、当分壱両弐歩弐朱ツツ 他国出
代金凡四千百弐拾五両
ここで挙げられている藩内の柞灰供給地は「平佐」「加治木(日木山窯)」「苗代川」であるが,北郷家の平佐焼,加治木島津家の日木山窯が「用」とされるのに対し,苗代川は「御用」とされている(山元家文書には,別に「磯御用」という表現も出てくる。集成館の磯窯を指すと考えられる)。
このことは,苗代川が藩の直接的な管理を受けていたこととともに,その管理・保護主体において,苗代川と平佐・日木山窯とでは格差が存在したことをも示唆していよう。
このような平佐と苗代川における保護・管理主体の違いは,窯場の経営方式(賃金支払い方法など)や指向性(質か量か)の違いを産み出し,さらには働く職人の意識や態度などにも,なんらかの違いをもたらした可能性も想像させる。同じ窯場で別の作業場というのも,その現れのひとつではないだろうか。
ではこのような「違い」が,考古学的に(たとえば窯道具などの技術的側面から)どのように弁別できるか。そのあたりが今後の課題である。
参考文献
上原兼善1993「嘉永・安政期薩摩藩の林産物仕法」『日本水上交通史論集』第5巻
関一之編2005『日木山窯跡』加治木町教育委員会
深港恭子2002「弘化から嘉永年間の苗代川における焼物生産について」『黎明館調査研究報告』第15集
前山博2001『幕末期の肥前有田は薩摩産の柞灰を求めた/柞灰の山里を尋ねて』私家版
渡辺芳郎2003「近世鹿児島における磁器窯場間の技術交流」『鹿児島大学法文学部 人文学科論集』57