ふと夜中に目が覚め、身体の異変に気づいた。右腕がない。
ん?と左腕で右腕を触ると 確かにあるのだが、まるで感覚がない。
力を入れることもできず、動きもしない。
んん?と起き上がってみると、腕の重さは肩に感じながらも、
脇から指先までが完全にマヒしてしまっている。
少し頭痛がしたので、まずい、脳か?と疑うも、徐々にびりびり
とした痺れ感が腕に広がってきた。
どうやら、おかしな態勢で寝ていて、右腕が痺れを通り越して
完全にマヒしたようである。
痺れ感の間は、だらりと垂れさがった腕に力が少しも入らない。
手を握ることすらできないもどかしさと情けなさと中枢障害の
麻痺だったらという不安とで、何とも言えない焦燥感に
苛まれていた。
少し動かせるようになってくると、動かそうとする意識と実際の
腕の動きとのギャップに悶絶するような苦しみを感じる。
痛みはないが、思うように動かない腕一本で、これほどまでの
苦しさを感じるものかと正直驚いた。
これまでそうした障害の経験はなく、従ってリハビリの経験も
ないが、この苦しみを毎日毎日続けることの大変さを思うと、
とてもではないが耐えられそうにない。
徐々に感覚を取り戻していく腕に少し安心して、再び床につき、
血の巡りが良い体勢で眠った。
朝起きると、痺れはもうなくなっていて、少し腕のだるさは
感じたものの、別段のことはなく、特に異常も見られなかった。
長時間血液の循環が阻害されていたはずなので、神経や細胞に
なにがしかの弊害があるかもと考えていたので、安心した。
つまり、自分にとって「あたりまえ」の状態に戻ったのである。
身体に障害のある人について、想像の及ぶ範囲で大変だろうと
考えてきたのは、不自由さという面が殆どであったように思える。
欠損という形で失われた状態であっても、まだ具足しているような
感覚を持つと言われているが、実感することは当事者でない
限りできない。
まして、外見上は何ら変わりないのに、機能が全く失われてしまう
というのは、不自由さよりも精神的な苦しみの方が遥かに勝る
ということを、ほんの幾許かではあるが理解できたように思える。
その人の立場にたって物事を考えるというのは、ある面、
感性と想像力の世界ではあるが、やはり実際に体験する
ことには及ばない。
つまり、互いに心の底から共感し合うには、それぞれの差は
あるにしろ、実体験を基としなければ、難しいのかもしれない。
今、思い通りに動く身体を、「あたりまえ」と捉え、
わざわざ考えもしないでいられる者が、あたりまえで無くなった
体験をするとき、あたりまえのありがたさを理解し、
あたりまえでない苦しみを知ることになる。
今現在の自分を不幸だと嘆いて生きるのか、どんな状況であれ、
生きている今現在を感謝するのか。
やはり人の幸、不幸は、その人本人によって決まる
もののようである。