2008/3/24
何も健康に関する話ではない。
食べるという事と、寝るという事の、基本的な話である。
人は食べて活動し、疲れたなら寝て身体を休めるという、
基本的な生活リズム無しでは、生きていく事は出来ない。
昔ならこの食べるという事に皆が必死で、つまりは生きて
いく為に必死であった。
それだけ貧しく、その日の糧を得るのに精一杯という状況の中、
懸命に働いた時代であった。
食べなければ死ぬが、少々寝なくとも死にはしない。
食べる為に働き、働く為にどうしても必要な睡眠を取るという、
単純明快な時代でもあった。
今はどうか。
お腹が空く経験はあっても、食べ物が無くて飢えるという
経験がなく、溢れるほどの食べ物に囲まれて育ってきた人には、
働く動機は食べる事には直結していない。
つまり、何のために働くかが、昔とは違ってきていることになる。
ホームレスでさえ、さほど食べ物に困っているようには見えない。
なんとも豊かになったものだ。
食べる為に働き、働く為に寝るという時代から、働く為に食べ、
疲れたら寝るという時代になった今、食べる事は目的ではなく
手段となり、寝ることは必要から当然となった。
一日を元気に活動する為に、十分な睡眠を取り、食事を取る
ことが当然となったことは、いわば理想的であるはずなのに、
この十分過ぎる状況は、かえって人間にはあまり良い影響を
もたらさないらしい。
いつでも食べられるという感覚は食事を不規則にし、必然的に
睡眠も不規則になる。
食べる為という、単純な働く事の動機付けが通用しない現在、
何のために働くのかというところから人それぞれが考えねば
ならなくなっている。
食べるだけなら、いつまでも親元にいれば、さほふど大きな負担を
掛けずとも何とでもなる。
ニートやひきこもりが多いのも、そのあたりを反映している
ように思える。
結果、不規則な生活習慣が身についてしまったなら、規則的な
生活に戻す事は難しくなる。
リズムの無い生活は、気力も萎えさせていく。緩和が必要なのは、
緊張があるためであり、緊張が無ければ緩和の意味も無い。
それは単なる弛緩の継続でしかない。
生活の為に必死で働いてきた者は、今の時代は働く動機がさほど
単純ではない事を知るべきである。
むしろ、現在の自身を振り返って、何のために働いているのかを
改めて見つめ直す必要がある。
食べる事に執着が無いものは、生きるということに執着が無い。
つまり、いつかは死ぬという事実にも無頓着で、結果、他人の
生命にも関心が希薄となってしまう。
現在の世情は、ことにその無頓着さが如実に現われていると
思われる。
少子化対策には、経済的支援を、教育に関してはシステムの
改革をと、いわゆる対症療法的なことばかりが議論されているが、
抜本的な解決とは成り得ない事は、議論している本人が解って
いるのではないかとさえ思う。
生きるということは、本来、元気で楽しい事であるはずだ。
辛い事、悲しい事、苦しいことは、生きる喜びをより実感させて
くれるスパイスとなるはずである。
何も難しいことを議論したところで詮が無い。
人の活動の基本は食べる事、寝る事である。
これをおろそかにしていては全ての活動に支障をきたす。
基本をきっちりと抑えておけば、生活のリズムというものは
自然に出来上がってくる。
今社会を支える世代はいうまでもなく、将来社会を背負っていく
世代においては、なおさら、この基本をしっかりと身につける
ことである。
食が溢れているにも拘らず、食生活はどんどん貧しいものに
なってきている。
一晩中明るい社会で、眠らない子供のなんと多い事か。
一人一人が、その家族家族が、この基本に立ち返って、
元気であって欲しいと願うばかりである。
いつの時代も元気の無い大人はいるものだが、子供はその本来の
まま、元気に溢れていて欲しい。
しっかり寝て、しっかり食べて、元気な日々を過ごして欲しい。
その元気が、未来を創ることは間違いないのである。
子供に元気のないのは大人の責任である。せめて、自分自身が
今を元気に生きる努力をする事である。
その姿を見せるだけでも、大切な教育となる。
そもそも、教育とは生きる事が楽しいという、幸せを目的と
しているはすである。
物質的に豊かになった反面、心が貧しくなってしまった今、
もう一度、不便で非効率的なこと、飢えや苦労というものを
敢えて経験する必要に迫られているような気がしてならない。
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