年が明けて一月は、まあローギアでゆっくりとスタートと考えて
いたのだが、実際は韓国への慰安旅行という大きな山を越えてから
このかた、娘の受験というこれまた大きな山を挟んで、接待、
出張がひっきりなしで、2月を終えようとしている。
まだ残り1週間ほどあるが、これも同じ様な忙しい週となりそうだ。
こう立て続けに緊張と安堵の極端な繰り返しが重なると、
一々飲まない気合をいれること自体が疲れてくる。
気合をいれてはお酒の場に臨み、無事に過ごしてはホッと安堵する。
これをひっきりなしに繰り返していると、疲れが蓄積されてしまう。
ある意味、断酒疲れともいえる状況の中で感じた事は、取り立てて
気合をいれながら断酒、断酒と意識せずとも、飲まない事が普通と
いうか、あたかも、もともと飲めない体質であるかのようになって
きたという事である。
万が一という事故だけは気を付けなければならないが、断酒という、
何となく気負ったものから、飲めないから普通に飲まないという、
どちらかといえば自然な感覚になってきている。
これは、ある意味、断酒の原点の風化かとも疑ってみたが、どうやら
そうではないようだ。
うまく言えないが、例えば、亡くなった母親のことを一日たりとも
忘れる事は無いし、毎日仏前で香をあげる。
だが、この頃では殆んど母親の事を夢で見る事はなくなった。
一日断酒はもちろんの事であるのだが、日々気合をいれるという
ことは無い。抗酒剤も、家では服用していないし、それを服用して、
今日も一日飲まずに過ごそうと、気合を入れることも無い。
なかなか今の心境を表現するのは難しいのだが、飲まない事は、
仏前で香をあげることに近く、断酒という事については、夢を
見なくなった事に近くなっている。
取り立てて断酒、断酒ということではなくて、飲まないのが普通で
あり、自分の自然体であるかのような心境なのである。
これでもかというくらい、お酒の場、危険な状況に置かれ続けて、
重なる疲労の中で感じた事なので、逆にいえばその中で苦しみ
抜いてきた後の心境の変化かとも考えている。
3年という節目は、こういう変化をもたらすのかも知れない。
いかなる場で、いかなる状況においても、「飲みたい」は無く、
「飲めたらなぁ」も影薄くなり、飲まないのが本来の自分のような、
繕わない自然な心境になってきているようである。
やはり、言葉で表すには難しい心境のようである。