嘘を好きな人はいないだろうが、子どものバレバレの嘘というのは、
愛らしく感じる。もっとも、同じ嘘でも大人がつくバレバレの嘘は、
うすみっともなくて、呆れられるか、軽蔑されるだけであろう。
自分は結構平気で嘘をつくくせに、他人の嘘は許せないという
人も多い。
私もご他聞にもれずその口ではあるが、突き詰めて言えば、
要するに本音と、真実を知りたいと思う気持ちが強いせいだと
思っている。
推察も、思慮も、真実の前では、ただの戯言に過ぎなくなって
しまうこともあり、基本的に自分としては、ありのままの現実、
真実というものを直視した上で、物事を考えてみたいという
願望が強い。
だから、他人の嘘というものが嫌いではあるが、どうでも
いいようなことに対しては、さして気にもならない。
それとは逆に、自分が嘘をつくときには、それほど苦には
しないようである。
うしろめたさがつきまとうような嘘は、わざわざつきたくも
ないが、自分が嘘をつくときは、少なくとも自分自身がその
本音や、真実をはっきりと分かっている。
つまり、明らかな、本当の事を分かっている上でつく嘘なので、
嘘も真実も抱き合わせで自分にあるという点で、変な言い方では
あるが納得できているのである。
人間である以上、ある真実を胸に抱きながら嘘をつかねば
ならない場合もあるだろうが、その場合は、嘘をつき通して、
墓場まで持っていくぐらいの覚悟も必要なのである。
その覚悟もないようなものであれば、さっさと謝るなり、
真相を吐露して、楽になってしまった方が良い。
建前にしろ、お世辞にしろ、厳密に言えば多少の嘘が
含まれるし、本音と正直さだけで生きていくのは、かなり
難しいことともいえる。
要するに程度と、本質的な意味での問題であり、そのあたりが、
嘘と方便の差であるかもしれない。
事実、嘘のつけない、正直な人もいるのだが、それでも
方便として、より良い方向を志向する、させるといった事は、
多々あるであろう。
「嘘も方便」というのは間違いで、嘘と方便は厳格に区別される
べきものと思われる。
自分では、嘘をつき通すことが出来ない人間だと思っているが、
同時に、正直に生きていくことも難しいと感じている。
要するに、苦しくともつき通すべき嘘と、真実を併せて抱える
という覚悟が無いことは、さっさと捨てて、正直であれば
よいと思うのである。
子どもは、嘘とわかる嘘をついて、簡単に嘘と見破られる事で
安心して正直さを身につけながら成長していく。
同時に、円滑な人間関係を築くには、方便が必要である事も
学んでいくのである。
方便は使い捨て、嘘は、抱えるか楽になるか、そして己の信念に
則って、抱えるなら抱えるで、それも良し。なにも、わざわざ
苦しい思いをする必要はない、正直に生きていくというなら、
それも良しなのである。
どちらが幸せなのかという根本的な問題については、その中間の
グレイゾーンを生きている自分には分からない。
ただ、正直であらねばならないと信ずる事には、厳格に正直で
あろうとするのみである。