生命というものを知覚し、認識できる人間だけが出来る事の
ひとつに、「祈る」という事があります。
斯くありたい、斯くあってほしいという願いが、祈りという
形を取らせるのですが、その願いは、道理から外れるもの
ではなく、具体的な現実性を帯びているのが普通です。
非科学的な事をいくら祈ったところで、何も結果は出ません。
ピアノを前にして、上手に弾けますようにと、いくら祈った
ところで、練習しなければ上手にならない事は自明の理です。
実は、祈りというものは、他力本願的な消極的な行為ではなく、
心のどこかに、何とかしようとする能動的な意志の発露として、
現れてくるものなのです。
つまり、何もしないで、祈っているだけというのは、
実は「祈り」というものではなく、「自己の放棄」とも
言うべきものなのです。
いくら努力をしてもどうにもならない事に対して、仕方が
無いから祈るというのは、本来の祈りの姿ではありません。
祈りとは、行動の中にこそ、その意義があるのです。
人事を尽くして天命を待つというのは、人事を尽くす中に
祈りがあり、祈りがあるから、人事を尽くせるのです。
そこには、天命という結果がどうであれ、人事を尽くした
という事は厳然と残り、そのことは決して無駄とはなりません。
祈りがあって、願いがあって、そして具体的に行動して
いくとき、様々な可能性が開けてくるのだと思います。
生かされている自分自身と、支えてくれている周りの祈りが
冥合したとき、「奇跡」と呼ばれる事が起きるのかも
知れません。
ただ、それは奇跡に見えるかもしれませんが、実は必然で、
誰から見ても顕著な形で現れたにすぎないのです。
奇跡というものは、まるで、選ばれし者のみに訪れるように
解釈されていますが、その現れ方の違いだけであって、
事実は、日常の中に、誰にでも頻繁に起こっているのです。
なかなかその事に気付く事は難しいのでしょうけれど、
祈りがあって行動する人、そしてその行動の中に祈りが
ある人には、日常の中で、多く奇跡とも言うべきものを
感じる事ができるのです。
神がかり的なことが強調されがちですが、人間の理性や、
知性を越えたところというのは、連綿たる生命の繋がり
による、共鳴とも共振ともいうべき、脈動の現れなのです。
感謝とは、その生命の繋がりの中に、確かに自身が存在し、
生かされているという自覚と、それぞれの祈りと行動が、
その繋がりに大きな影響をもたらすという事の認識の中に、
本当の意味で生じるものだと思います。