以前にも書いたが、このアルコール依存症という病気は、
本人の意志というものには全く関係がなく、
お酒を飲むことを止められなくなる病気で、精神的にも、
肉体的にも徐々に蝕まれ、家庭生活、社会生活は、次第に
破綻し、終焉は死に至るというケースも、多々ある。
よって、その病気自体をよくよく理解し、自分の意志だけ
ではどうしようもない事を認めた上で、回復への道を進むのか、
飲みたいだけ飲んで、死んでいくのかは、おかしな話では
あるが、本人の意志である。
つまりは、「生きたい」のか、「死んでもいい」のかの
どちらかである。
もっとも、この病気のピーク時にある人は、殆んどが
「死んでもいい」と思っているであろう。
お酒を止められない時というのは、この病気のピークの
時であり、意志の問題ではない。
だが、治療を受けるなどして、お酒を止める事が出来るまでに
なってからは、意志の問題である。
断酒して立ち直ろうという意志があるのか、
無いのかだけである。
立ち直る意志がある場合は、どんな場面でも、自己との
戦いである事を忘れてはならないし、危険な場を乗り越える
ごとに、兜の緒を締めなおす気構えでなければ
ならないと感じる。
対して、この意志というよりも決断の薄い人は、
飲んでいた頃と同じ様にいつも言い訳と、弁解のタネを
探す事に終始しているように思える。
「飲まないと、場の空気をしらけさせてしまう。」
「乾杯の、一杯だけ。」
「もう、一年も飲まないで来ているんだから。」
「人間、失敗もあるし、それが人生。」
挙句の果てに、
「これは、意志に関係ない、病気なんだ。」と、逆手に
取ったような弁解をする人もいる。
一体、誰の為の断酒なのか? もう一度、考えてもらいたい。
家族の為、会社の為、人それぞれ思いはあるであろうが、
自分自身が立ち直らないで、家族の為にもならないし、
会社の為にもなるわけが無い。
つまりは、まず自分自身が立ち直る事。健康を取り戻す事。
お酒を離れて、一日を精一杯暮らす事。
その姿、その生き様が、家族や会社、ひいては、社会の為に
なるのである。
であるならば、何よりも自分の為に、まずは、断酒をする
ことから始めているのではないか。
言うに事欠いて、これは病気なんだなどという弁解を
家族にして、それが一体、なんだというのか?
家族にすれば、「病気で済ませられるのか?」という
ことでしかない。
断酒の日々を積み重ね、頑張っている自分を認めて欲しい
気持はわかる。
不本意ながら、スリップしてしまった自分に対し、慙愧の念に
苛まれる気持もわかる。
しかし、再飲酒を繰り返し、その弁解が、これは病気なんだ
などと言える人の気持は、到底理解できない。
同じ様に、再飲酒を繰り返している人でも、その度に、
死にたいほどの辛さを感じ、何度も立ち上がろうともがいて
いるのであれば、微力ながらもエールを送りたいと思うが、
病気なんだという弁解を繰り返す人に対しては、
吐き気さえもよおす。
自分が、医療側の人間であったとしたら、間違いなく
匙を投げているだろう。
意志ではどうにもならない病気という事を、意志が問われる
段階においてずるく利用するのは、卑怯というものだ。
それならば、飲んだくれて、死んでしまう事で、周りに
迷惑を掛ける事を無くしてしまう方が、よほど人間臭くて、
かえって好感が持てるのである。