菜の花に僧の脚半の下りけり(蕪村)
discenserunt
in floribus brassicarum
calei monachi.
Dans les fleurs de colzas
sont descendus
les chaussettes d'un moine.
「旅人の鼻まだ寒し」と同じ技巧を用いた句。いずれも、身体の一部のみを指示することにより、そのひと全体を表しています。単に僧というよりも、あえてそのディテールを主語にすることで、人物がより具体的な存在感を獲得しているように思います。両側にひろがるのは、一面の菜の花畑。黄色と黄緑のじゅうたんの中を、脚半を巻いた足を交互に動かしつつ遠ざかっていく僧。そして、その様子を何をするでもなくずっと見守っていた作者はおそらく、菜の花畑を見下ろすこの陽の当たる高台に、もう何時間も前から腰を下ろしていたのではないでしょうか。この句は、僧の歩みを絵画的に描いているとはいえ、そこから喚起される深閑とした時間の経過、あるいは止まってしまったかのような時間の流れこそが本当の主題であるような気がしてきました。
訳するにあたりまず問題になったのが、脚半とは何かということ。水戸黄門で助さん角さんが脚に身に付けてるものだと想像はついたのですが、いったいあれは靴なのか、靴下なのか。そこで、国語辞典を引いてみたら、以下の説明がありました。
「(1)旅や作業をするとき、足を保護し、動きやすくするために臑(すね)にまとう布。ひもで結ぶ大津脚絆、こはぜでとめる江戸脚絆などがある。脛巾(はばき)。(2)「巻き脚絆」に同じ。」三省堂提供「大辞林 第二版」より
要するに、レッグウォーマーやサポーターのようなものだったようです。では、それをラテン語でどう表現するのか。とりあえず、いつも使っているノートルダム大学のオンライン英羅辞書でsocksで引いてみましたが、相当するラテン語はない模様。しょうがないので、Gaffiotの羅仏辞典のイラストで見る限り、短めのブーツに相当すると思われるcalceusを使ってみました。
GAFFIOTは改訂版が出て、イラスト入りはもう入手困難になった模様。
ところでこのイラストを見ていて気になったのが、calceusが覆っている範囲がかかと(calceusという単語自体、「かかと」を意味するcalxから派生したものです)からくるぶしの上あたりのみで、つま先のほうは露出している点。これでは冬はかなり寒かったのではないかとつい思ってしまいます。ローマ帝国はブリタニアまで版図を広げたことから、防寒用の足袋や靴下に当たるものがあったと思うのですが、それが何という語だったのか探せないのが残念。教えていただければ幸いです。
なお、僧に関しては、教会ラテン語で「修道士」を意味するmonachusを使ってみましたがどうでしょうか。一人で修行する行者などを表すeremitaを使ってしまうとやりすぎでしょうか。
さて、僧がでてくるようなnekojita氏の俳句がないかまた探していたところ、偶然見つけたのが、この
bleu sans limiteというサイト。このなかのjeux d'écrituresというコーナーの
neko no kuというスレッドで、非常に面白い句を発見。
le prunier décline
rosa rosae rosarum
au temps passé
梅散るや
昔のローサ
ローサールム
rosa rosae rosarumとは、ラテン語の教科書の一番初めに決まって出てくる変化表。この変化を覚えるのはなぜか「薔薇」という花を使うことに決まっているようです。
泉井久之助『ラテン広文典』第一章の変化表
ところで名詞変化のことは仏語でdeclinaison。declinerから派生した語です。つまり、初句のdéclineは、「梅が衰えていく」ということと、「名詞変化」が掛詞のようになっているわけです。 さらに、au temps passéとともに用いられたこのフレーズはまた、「いにしえの言葉であるrosa rosae rosarum」のみではなく、「昔、習ったrosa rosae rosarum」をも示唆しうることから、ラテン語を習い始めたばかりのころの情景を思い起こさせる効果もあるように思います。ここで思い出したのが久保田万太郎の次の句。
竹馬や
いろはにほへと
ちりぢりに
この句では、俳句には珍しく言葉遊び、あるいは言葉の重層的な意味を生かした技巧が見て取れます。まず、「竹馬」という語の背後に「竹馬の友」という表現が配されます。そして、学校で「いろは」をともに習った友達たちも今は皆、「ちりぢりに」分かれてしまったということを、「いろはにほへとちりぬるを」を巧みに引用しつつ表現。そこには当然、イロハ歌の主題である仏教的無常観も重なってきます。
nekojita氏のrosa rosae rosarumには、「イロハ」のような思想性はありませんが、そのかわり、「梅散る」とともに用いることで浮かんでくる「薔薇の花が散っていく」という豊かなイメージ、さらには「花の散ること」によって喚起される古代からの、そして学校時代からの時の流れまでもが、そこに読み取れるように思います。ラテン語愛好者の贔屓目だといわれるかもしれませんが、非常に短い表現から世界がどんどん広がっていくという意味で、このrosaの句は、相当な傑作ではないでしょうか。
5/4追補 その後、フランスのYahooグループでnekojita氏による自注を発見。"Le temps est passé et la couleur aussi."とあるので、これは小野小町が意識されていたのかもしれません。